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2006年4月 7日 (金)

とてもやりきれない事件

あまりにやりきれない事件なので、どう考えを表出したら良いか自信がなく、ずっと触れるべきかどうか迷っていました。川崎市多摩区で起きた小学校3年男児マンション投げ落とし事件のことです。

060407mansyonnageotosisatujin_by_kanasin 今日の神奈川新聞で、川崎市立学校の合同校長会議(6日)が開かれ、本件を通して児童生徒の安全対策が話し合われたことが報じられていました。先生方は辛さをこえて話し合われている、私もやはり生徒の生命の安全をあずかる校長として避けてはならない、どうしても一言、触れておかなければならぬことだと思い、本日の記事にすることにしました。

3月20日、マンションの15階に着いたエレベーターから降りてきた男児を待ち伏せて、その後ろから追いかけて、わずか20秒後には地上に叩き落した。身の毛もよだつ恐ろしい事件です。その9日後に清掃作業員の女性も投げ落とそうとして未遂に終わっています。捜査当局の調べでは、相手は誰でも良かったということのようです。15階で待ち伏せていて最初に降りてきた人を投げ落とそうと考えていたというわけです。これでは男児は浮かばれません。

親御さんからきっと「してはならぬよ」と躾られていたであろう道草を食って帰れば良かったのにと思いはできても元に戻すことはできません。そして普通はあっては困るエレベーター故障が頻繁に起これば良かったのにと思いはしても時は戻りません。

報道では、犯人は日常、穏やかな紳士という評判だったということであり、また最近は自ら病んでいて、自殺をしようと図ったことも一度ならずあるということですが、そうであればあるほど許されることではありません。自分が15階から飛び降りることができなかった、それがどうして、いたいけない児童や年老いた女性を叩き落とすことにつながってしまうのか?通常人には頭にすら浮かばないことです。

一般に精神を病んでいる人の犯罪は軽減ないし不問に付されるわけですが、このような事件が起きるたびに、果たしてそれで良いのか? 事件の態様に無関係に押しなべてそれで良いのかどうか、疑問は膨らみます。

また、加害者の人権というものが議論されるようになってから久しいですが、裁きの手続き上の法的定めは守る必要があるという理屈ならわかります。しかし、罪の償いがいかになされるべきかという点においては、やはり【加害者の人権=普通人の人権=被害者の人権】であってはならず、【加害者の人権<普通人の人権<被害者の人権】という考えを根底において議論を進めなければならぬ、人権を云々して加害者を守ろうするならば、その前にするべきは被害者とその遺族の人権を元に戻すことでなければならぬ、それが不可能ならばやはり「罪の償い」は相当にすべきであろうという思いは、被害者のことを思えば思うほど、脳裏にこびりついて容易にはとれません。

事件の社会的背景とか、そもそも社会はどうあるべきや?というようなことや、犯人の事情を議論の対象に加える向きもありますが、それは現に起きてしまった事件の罪を問うこととは全く別次元で議論を進めるべきであるという気持ちを、ずっと持っています。将来への一般的改善や対策の問題として議論すべきだと思うのです。そうでなければ、当該事件の被害者や遺族は耐えられないでしょう。情状酌量とはまったく別次元のことです。

川崎市立学校の校長会議に参加した校長先生たちは「学校に今、何ができるのか。戸惑いがある」と言っておられたようですが、私自身、本校生徒の安全のために何ができるのか、具体的手立てを考えていかなければならぬと思います。

私は保護者の方々に、<お預かりしている御子を我が子のように思う>、生徒には<君達を我が子と思って叱るべきときには叱り、慈しむときには慈しむ>と言いつづけてきました。どの校長先生もどの先生方も私と同じ思いでおられます。それだけに、叩き落された男児のご遺族、通っていた小学校の校長先生や先生方の痛憤の思い、深い悲しみ、それを想像すると耐え切れないものがこみあげてきます。

ご冥福をお祈りします。合掌。

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