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2006年5月11日 (木)

地球は平面か?それとも球面か?(「トンデモ」と「真実」の違い)

○本日、健康診断でした。お疲れ様でした。教職員の健康診断は6月ですが、年に一度の健康診断は年とともに大事になってきます。私は昨年、初めて健康診断に行くことができませんでした。毎年受けているものを逃すと、心なしかあちこち具合が悪いような気がするものです。今年は万障の上に万障が来ようとも繰り合わせて健診に行こうと思っています。

060511_koutyousitu_syodo_heisei2nen_tuti 左の写真は、校長室に掲額してあるものです。平成12年度卒業生の土屋さんのもの。県代表として全国大会に出品されたものです。本日は、掲載する写真がないので、<特別出演>していただきました。

■昨日と材料は変わりますが、今日も「真実」について考えたいと思います。

 月や地球、太陽など大きな星はすべて球体であることは今や常識ですが、はるかな昔、古代ギリシャ時代にすでに地球=球体説は学者によって証明されていたといいます。それは月食は地球の影が月に映るから起きること、日食は月が太陽をさえぎるから起きることなどを証明したり、航海しているとき水平線に現れる船が海のどこでも必ずマストの先端から見え始め、だんだん全体を現してくることを経験したりして地球は平面ではなく球体だと考えたということです。

宇宙から地球を眺められる現代においてはなおさら、「地球は球体」に異論を唱える人はいないはずですが、ところがどっこい「地球は平面」と信じている人々がいるそうです(↓)。

http://www.alaska.net/~clund/e_djublonskopf/FlatHome.htm

でも、いくら、その人々が地球平面説を真理だと信じているからといって、その人たちの言い分にも一理あって否定できないという人はいませんよね。それは私たちが、「真実・真理」と「真実・真理だと<信じる>こと」は全く別物だということを知っているからです。自分で「真実と信じて」いたことが単なる思い違いだったという経験も誰でも一度や二度は持っています。

ところが、昨日の記事で触れた上高森遺跡を捏造した考古学者は、「北京原人と同じぐらい古い時代に日本に人間がいたのは間違いないと確信」して暴走してしまいました。また、多くの死者を出した「オーム真理教」は「真理」を名乗っていたのに、大暴走してしまいました(自分が真理であると信じていたがゆえに大暴走したといったほうが正確かも知れません)。

「間違い」を「真実」と勘違いしない方法はないのでしょうか?実験と証明を重んじれば勘違いを防げます。何度も実験してみて「自分の確信」と違った結果が出たら、「自分の確信」が間違いだったということです。水は下から上には流れないと確信していても、サイフォン実験をみせられたら、水は上に流れることがあると納得するしかありません。

でも残念ながら、どんなに証明されていても、「間違い」を「真実」であると決め付けて世の中に広く訴えようとする本や主張が後をたちません。次から次へと出てきます。そのような本のことを、「トンデモ」本と呼びます。<とんでもないことを言う本>という意味ですね。それらを追跡して、どこがトンデモナイのかを明らかにしようという「と学会」というのができているほどです。

http://www.togakkai.com/

http://homepage3.nifty.com/hirorin/tondemotaisho2005taroron.htm

マーチン・ガードナーという1914年生まれの数学者が「奇妙な論理」という著書のなかで、疑似科学者について触れています(いわゆる「トンデモ」系の言説のことをガードナーは「疑似科学」と呼びます)。彼によると、疑似科学者の特徴は、<自分を天才だと信じ自分を支持しない人々を愚か者と思っている>。また<自分は不当にも迫害され差別されていると考えている>のだそうです。要するに自分のことを偉大なガリレオ・ガリレイのようだと思いたいわけです。・・・私たちが勉強や学問する場合はそうならないように、気をつけなければならない点です。

さて厄介なのは、社会や人間に関する問題です。これらは、自然に関することとちがって、実験することができないし(してはならないのですが)、真実を証明するのが大変困難だからです。

困難でも、歴史を経るうちに、間違いだったのか真実だったのか、見えてはきますので結果的に実験と同じだったということはあります。数年で明らかになることもあれば、何百年もかかることもあります。でも、その場では証明しにくいのが社会や人間の問題です。だから、社会や人間の問題について自分が真実だと思う意見を述べる場合は、<自分が間違っているかもしれない>という謙虚な態度と、<相手を罵倒せず><声高に威圧するやり方をとらないようにして>、冷静に、事実を積み重ねながら議論することが必要です。そういうことを自覚できるかできないかで、人の生き方はずいぶん違ったものになります。「自分は間違っているかもしれない」という態度を忘れないようにしたいものですね。

それともう一つ、「自分がどんなに真理だと思うことでも、それが人々に受け入れられなかったら、決して陽の目をみない」ということも大事にしなければなりません。学年だよりで、T先生がおっしゃっているとおり、ガリレオ・ガリレイは国民みんなに地動説をわかってもらいたくて、イタリア語で地動説を書きました(※当時、学者はラテン語で論文を書かなければならなかったのに、あえてイタリア語を使いました)。彼がイタリア語で書いたのは、「どんなに真実であっても一部の学者に否定されたら話しにならない、直接、国民にわかってもらおう」と考えたからです。つまり、人々に理解してもらえるような広め方、語り方、それは引いては人間性につながりますが、それも大事だということを、あわせて覚えておきたいと思います。

二日続きで勉強と<真実>VS<信じる>ことの違いについて書いてきましたが、<シンジツ>、<シンジル>・・・末尾「ツ」と「ル」の違いだけなのに大変な開きがあることが分ってもらえればと思います。でも、皆さんが教科書で教わることの99%は、すでに証明されたことですので、安心して勉強してください。ただ1%は今後ひっくりかえることがあるかもしれない。それは将来、皆さんが明らかにできることかもしれませんね。・・・・そう考えると益々勉強が楽しみになりますね。

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