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2006年7月26日 (水)

星野富弘さん、その2

■昨日、2年生Sさんが、富弘美術館の絵葉書(絵手紙)を持ってきてくれたと書きましたが、今年から武蔵工業大学附属中高の先生として勤めている本校卒業の千ヶ崎ひろみさんからもメールをいただきました。あわせて紹介したいと思います。

まず2年生Sさんのものから。060726_0725tomihirobijutukan_nyujoken

【 木は自分で動きまわることができない / 神様に与えられたその場所で / 精一杯 枝を張り / 許された高さまで / 一生懸命 伸びようとしている / そんな木を / 私は友達のように / 思っている 

※<神様に与えられたその場所で>とか<許された高さまで>・・・という言い方にはっとさせられます。「生きているのではない、生かされているのだ」という言葉がありますが、それに通じますね。<与えられた>とか<許された>という表現であっても、決して受身であったり、自分の可能性を見限っている言葉ではありません。その後に続く<一生懸命 伸びよう>という言葉に涙が流れそうになります。

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【 よろこびは束の間のこと / 悲しみもまた / 明るさの中で見れば / ちっぽけな / かたまり / 朝の庭に / 燃え尽きた / 線香花火の / 玉を見つけた 

※前の夜、みんなで楽しんだ花火。束の間のことではあっても楽しかった・・・でもやっぱり束の間。同じように悲しみだって束の間にちがいない・・・線香花火のぱちぱちするのは悲しみなのか喜びなのかわからないときがありますが、燃え尽きて玉になっているのを朝日の中に見ると、悲しみだったとしても、それはちっぽけなこと。・・・・こんな風に星野さんに諭されると、よし生きよう!!という気持ちが湧いてきます。

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【 木のように / 歳をとれたらいいな / 幹は白く / なめらかに乾き / 洞では ももんがが / いねむりをしている / 鳥を憩わせる枝は / 大きく 横にまがり / たまには ここに腰掛け 休みなさいと / 人間にも いっているようだ / 欲を重ねて老いるのではなく / 木のように / 歳をとれたらいいな 

※洞は、木の枝が折れた付け根などにできる「うろ=穴ぼこ」のことです。星野さんは木に、「万物を休ませるふところの深さ」をみておられるのですね。木は、私たちに「自分が何物なのかを考えよ」と言っているるのかもしれません。

 欲を重ねていないか?淡々粛々と生きているか?と。せんだって創学館高校の熊谷校長先生の言葉に出会ったのですが、そこに「崇高な理想を説きつつ、一皮剥けば、利害打算が見えることもある。しかしそんな<理想>はもろく崩れる」という主旨のことが書いてありました。自分をしっかり見つめて木のように生きたいと思います。

※Sさん、良い絵手紙のことばをありがとうございました。

■次は、卒業生千ヶ崎ひろみさん(武蔵工業大学附属中高の先生)からのメールにあった、星野富弘さんの言葉です。

          麦の穂

となりも麦の穂 / ぶつからず / 離れすぎず / 特に高いものもなく / 特に低いものもなく / にてるけれど / みんなちがう / 麦の穂 / 太陽の弓矢 /

※千ヶ崎さんは、「(言葉だけでなく)星野さんのやわらかな絵も、眺めているといつも優しい気持ちになります。」と結んでおられます。一年生の副担任として林間学校を引率してきたそうです。生徒たちのしわざなのでしょうか、蛙が殺されて放置されていたので、それをホテルまで「連れて帰って」、生徒たちに「いのちを大切にするってどういうことなのか考えてほしい」と諭したそうです。「生徒たちは真剣にこたえてくれたのが忘れられない出来事でした。いっしょにホテルの脇に蛙を埋葬しました。」と報告してくれました。蛙を「連れて帰る」という表現といい、感性の豊かな先生になっていますね。これからも、がんばってください。

※明日からしばらく学校を不在にしますが、その間も校長日記は休まずに続けます。ひきつづき、ご愛読願います。コメントは右上プロフィール内のメールボタンからお願いしますが、返事は8月1日以降になります。あらかじめご容赦願います。

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