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2007年3月29日 (木)

キリングフィールドにて (執筆:樋口)

※最初にお断りしておきます。本日は、文章が随分長くなってしまいました。けれども、最後まで読んでいただけると大変ありがたいです。(樋口)

Photi13左の写真は、「JHP・学校をつくる会」プノンペン事務所で撮影した一枚です。私がカンボジア滞在中にお世話になったカンボジア人現地スタッフの方々です。向かって左のサコーンさんと右のパリーさんは、以前の記事ですでに紹介済みですね。中央の方はバン・ラスさんといって、滞在3日目にパリーさんと交替して私に同行してくれました。本来は、サコーンさんも別のもう一人の現地人スタッフの方と交替予定でしたが、その方がお腹を壊して自宅療養中とのことで、急遽続投で3日目も同行してくれました。(現地日本人スタッフの方の談によると「昨日は朝からトイレに籠もって、とっても辛そうでした・・・。」とのこと。当然ですが、現地の方もお腹を壊すのですね。くれぐれも、食べ物や生水にはご注意を。)

Photi23

ということで、3日目は古川さん、サコーンさん、ラスさんと共にプノンペン市内を廻りました。左の写真は、市内で最も大きな市場です。体感気温30度以上の炎天下の中、客を呼び込む様子は、まさにアジア独特の熱気を感じます。ここでは、「こんにちわー」「安いよー」など、日本語で呼び込む売り子さんもいます。

Photi6_1Photi7右の写真は、上とは別の市場で撮ったものです。市場の内部は薄暗い迷路のようで、一度入ると迷子になりそうです。様々な食材が並ぶ様子に圧倒されます。右の写真の吊されているものは、確か魚の卵か白子かを干したものだったと思います。何の魚だか忘れてしまいましたが、とても高級な食材だそうです。

Photi17_1 さて、このカンボジア視察の間には日程の都合もあり、ほとんど観光をしなかったのですが、唯一、上記の市場めぐりと、キリングフィールドへ行くことができました。キリングフィールドとは文字通り”KILLING FIELDS”(虐殺の野)のことで、ポルポト政権下の大量虐殺で殺された人々の死体が捨てられた場所です。この名前は1984年に上映されたアメリカの映画”THE KILLING FIELDS”に由来します。(この映画は、カンボジア内戦のリポートでピューリッツァー賞を受賞した、ニューヨークタイムズ記者シドニー・シャンバーグの実体験が基になっています。)実際の「キリングフィールド」はカンボジア各地にあるそうですが、きちんとした慰霊塔が建ってPhoti18いるこの場所を指すことが多いようです。

慰霊塔は意外と大きい建物です。驚いたことに、この慰霊塔の内部には、優に数百を超す数の頭蓋骨が安置されていました。よく見ると頭部に穴のあいたものもあります。恐らくは殺される時に剣や銃によってつくられたものなのでしょう。

Photi19_1

これらの頭蓋骨は、この場所から発掘されたものです。左の写真は、発掘した場所の跡です。ここに埋められた遺骨は、まだ全て掘り起こされてはいないそうです。そのあまりの数の多さに、発掘は途中で断念されているのだそうです。

以前の記事でも書きましたが、ポルポト政権は政治的反対者を厳しく弾圧し、1976~79年の間に200万人とも300万人とも言われる大量虐殺を行いました。その多くが、知識人階層の人々です。

現在、この国には大別して3つの階層がいます。すなわち、官僚、中間知識階層、そして農民・職人階層です。官僚は、最も裕福な階層です。中間知識階層は、大量虐殺の影響で現在も少数派です。農民・職人階層は、教育も十分でなく、極めて貧しい生活を送っています。カンボジアの将来を考えると、その力が最も必要となるのは中間知識階層だと思います。しかし、その知識層は今就職難に喘いでいます。働くべき受け皿が無いのです。そういう意味で海外から来るNGO団体は、彼らにとっての一つの受け皿となっています。冒頭に紹介したカンボジア人スタッフの皆さんも、英語ができ、専門知識を持った知識人です。例えば、ラスさんは高校の化学の教員免許を持ち、また現在大学に通って土木工学の勉強中です。そういう専門知識を国づくりに活かしたいと考えているのです。

Photi20_1 この国のあまりにも悲惨な過去や、根深い構造的矛盾を抱えた現在の様子を考えると、少し暗い気持ちになってしまいました。炎天下の中、おびただしい数の頭蓋骨に圧倒され、複雑な心境のままフィールド内を歩いていると、ふと場違いなほど高らかに明るい子どもの笑い声に出会いました。見ると、垂れ下がった樹の枝をブランコのようにして遊ぶ子どもの姿です。私は、この瞬間デジャブを見たような錯覚に陥りました。私は、同じような光景に沖縄でも出会ったことがあるのです。それは3年ほど前の沖縄修学旅行で行った摩文仁の丘での出来事です。少し長くなりますが、その時の報告集のあとがきに書いた私の文章を引用させてもらいます。

 この旅行は私個人にとっても、様々なことを感じ、とても勉強になる旅であった。例えば、旅行初日に摩文仁の丘を訪れた時のこと。ここには沖縄戦で命を落とした20万人以上の犠牲者の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」が、太平洋に向かうように立ち並んでいた。沖縄南端から漠々と広がる太平洋を見ながら、この時私はふと背筋に寒くなるような感覚を覚えた。沖縄といえば、白い砂浜と遠浅の美しい海を真っ先に思い浮かべる。しかし、この海は違う。切り立った崖が足下を脅かし、その下には深い色の青い海が荒々しくどこまでも広がるばかり。この先にはどんなに漕ぎ進んでも大陸も島も何もない。この海が漠々と広がるばかりだ。それを私は感覚的に悟り、恐怖を覚えた。この海に戦死者達は飛び込んだのである。
 摩文仁の丘を立ち去る間際、公園内で遊ぶ一組の親子の姿が目に焼き付いた。お母さんの持つ赤い風船に飛びつこうと、小さな男の子がはしゃいでいる。その親子の笑い声は、この場所に不釣り合いなほど明るく響いていた。私は妙にちぐはぐな気持ちを抱いた。この子はこの場所がかつてどんな場所だったかを知らない。この場所で多くの人が死に、あるいはこの土地の下には、まだ発見されていないガマ(洞窟)があって、いまも遺体が静かに眠っているかも知れないということも。
 しかし、ふと、「それはどこでも同じことだ」という考えが、衝撃のように私を襲った。私がいま生活しているこの土地でも、もしかすると何百年も大昔には、大勢の人の血が流されていたかも知れないのだ。この少年と私の間にどれほどの差があるだろう。
 そう思った瞬間、私は今まで何か釈然としなかった疑問に解答を得たような気がした。Dscf1181私たちにできること は、戦争を悲しく思い出すことばかりではない。その傍らで高らかに笑うこともできる。それでよいではないか……。
 私には、この海が今でも忘れられない。

ここでも私は、子どもの笑顔に励まされてしまいました。子どもの無邪気な笑い声は、どんな賢人の言葉よりも哲学的である。私はそう思います。(樋口)

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