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2007年11月22日 (木)

先週と今週のLHR(ロングホームルーム)活動

  • 今日11月22日は「1122」で「いい夫婦の日」だそうです。3Cの内田さんに教えていただきました。「勤労感謝の日」の前日が「いい夫婦の日」だというのは、夫婦お互いの働きをいたわりあいなさいという暗示でしょうか。ところで、明日の勤労感謝の日は校長日記をお休みいただきます。

■木曜日の午後はロングホームルーム■

先週と今週、シリーズでクラスごとに日程と時間を調整して映画鑑賞と球技大会の練習でした。数回に分けてご報告します。

<映画「いまを生きる」鑑賞>

 英語の教科書に出てくる映画ということで、みんなで鑑賞することになりました。

071122eiga_ima_wo_ikiru0001_1 日本の言葉でいえば<性格俳優>のロビン・ウイリアムズ扮するキーティングという名前の教師が、生徒たちをぐいぐい惹きつけ感化していく物語です。

 私は最初の方と終わりのほうしか観ることができませんでしたが、物語の筋は次のようなことです。

071122_1115eiga_ima_wo_ikiru0001_2071122eiga_ima_wo_ikiru0001_3舞台は1959年、アメリカの伝統的な全寮制高校にキーティングが赴任してきます。

071122eiga_ima_wo_ikiru0001彼は、授業でいきなり、君たちが使っている詩の教科書は理屈に走っていてつまらん、破り捨てよと指示するなど、型破りな教育方法をとります。

071122_1115eiga_ima_wo_ikiru0001071122_1115eiga_ima_wo_ikiru0001_1 彼が実は同校OBであることがわかり、それを知った生徒たちに、自分は在校中、「死せる詩人の会」というサークルを作って夜中に寮を抜け出して洞穴で詩を読みあったりしたことがあることを生徒たちに話します。

071122eiga_ima_wo_ikiru0001_4 そこから生徒たちの感化変貌が始まりますが、それは同時に波乱の始まりでもありました。

 あとはDVDをレンタルしてご覧になることをお勧めします。

 私の感想を付け加えておきます。

 キーティングは若者は感性を研ぎ澄ますことに情熱をぶつけるべきで規律に従順に縛られたり、親の期待を無条件に受け入れる存在であってはならないことを力説する教師です。

 そして、この映画において、キーティングは優れた教育者、しかし悲劇的な不運の教師として描かれており、彼に対する作者の愛情を感じることができます。その作者のキーティングに対する愛情は正しいと思われます。

 また風景映像が実に美しく撮影されており(美しいロケ地が選ばれておりというほうが正しいでしょうか)、その面からだけでもお進めできる映画だと思います。

 ただ、こういう映画の場合、誤解する人がいるといけませんので、実際のことについてどうしても述べておく必要があります。

 この映画の主題を「理想主義と現実主義の対立」と受け取る人がいると思います。それで述べておきたいのです。私は理想主義というより信念教育と言い換えたほうが正確だと思います。

 以下、理想主義教育ないし信念教育のことについて述べますが、これは左右どちらの立場を問いません。以下に述べることは、いかなる立場からの理想主義教育(信念教育)についても当てはまることだと考えています。

 「理想主義」教師を自認する教師は、その信念によって、強烈に何名かの生徒を惹きつけることができますが、ほとんどと言ってよいほどその他の生徒および周囲の誤解を招いたり反発を招きます。また、その先生についていけない生徒には強烈な疎外感をもたらすことになります。←ここはとても大事なところです。

 ですから、純粋に理想主義をめざす教師というものは、実際には(学校教育現場では)、信念を貫く力量と社会的に順応する力の双方を育てる大変な力量を持たなければ、教師をやってはならないというのが、私の経験上からの考えです。

 しかし、実は、その二つともに大きな力量を身につけることは、いかな教師といえどもできることではないのです。それは教師の怠慢ではなく、上の二つの力量を人間という存在はなかなか身につけられないものだからです。(完璧ではありえない)。

 教師、人間は、「理想に燃える」「理想主義をめざす」ことができるだけです。

 しかし、「理想に燃える」ことは「理想主義で生きる」こととは別物です。そういう教師自体、実際には絶えず現実主義的な生き方を選択して生きざるを得ないし、そういう人間的な知恵を身につけているわけです。

 その自分を「棚にあげて」、生徒に「理想主義」を強制するような語りかたをすることは絶対禁物です。「その生き方こそが美しく正しい」というように自信満々の語り口で「理想主義」を生徒に語ってはならないと私は思っています。

 教師が「理想」を語ることができるのは、教師自身が理想主義と現実主義のはざまで悩んでいるときだけです。そのとき、教師は生徒の気持ちによりそって、ともに歩む選択をすることができます。

 上で「生徒の気持ちによりそって」と書いたのは、青春真っ只中を生きている高校生(あるいは中学生、ときには大学初年生)は、その本来の姿として「理想主義」に走るからです。しかし、その若者の理想主義は社会の現実、大人の現実に跳ね返される経験をするものです。そういう生徒の気持ちには寄り添う必要があります。

 青年は本来の姿として理想と現実のなかでもがくようにできあがっています。それが人間の真実ではないかと思うのです。そういう青年に接するのに、教員が理想主義だけで接すると、その教えを受けた青年は現実世界を軽蔑するようになります。

 その軽蔑観が限界に達するほどに「理想主義」に<はまる>と、「理想」のフィルターによって現実がまったく見えなくなり、現実に対処する方法を見失うことになると思っています。

 以上の考えから、「教師にできること」は、「教師自身が理想主義と現実主義のはざまで悩みつつ」、「生徒の気持ちによりそって」と書いた次第です。

 純粋な理想主義があるとしても、それは「現実と折り合いつつ理想を捨てずに生きることのできる<力量>」を要求しますので、美しくとも、実に大変な生き方なのです。その覚悟を経験の浅い生徒に求めなければならないので、底の浅い中途半端な考えで教育に持ち込んではいけない・・・・・映画「いまを生きる」はそういうことをよく教えてくれる作品だと思います。

<球技大会練習>

先週のC組のドッヂボールの練習風景をご覧ください。

071122dochi_ball0001 071122dochi_ball0001_1 071122dochi_ball0001_10 071122dochi_ball0001_11 071122dochi_ball0001_12 071122dochi_ball0001_13 071122dochi_ball0001_14 071122dochi_ball0001_15 071122dochi_ball0001_16 071122dochi_ball0001_17 071122dochi_ball0001_18071122dochi_ball0001_2 071122dochi_ball0001_3 071122dochi_ball0001_4 071122dochi_ball0001_5 071122dochi_ball0001_6 071122dochi_ball0001_7 071122dochi_ball0001_8 071122dochi_ball0001_9 

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