2011年5月 6日 (金)

書道部のこと@全国的に活躍した部活動≪大倉山五十年史vol .40≫

大倉山五十年史に掲載した現行の第40巻です。

今回は、「全国的栄誉に輝いた部活動」の最後で、書道部です。

↓書道部は、最後の最後まで頑張り抜き、統合の年に植木さんが「書の甲子園」において大賞を獲得するという栄誉に輝きました。

 また、長年の神奈川県教育書道界に多大な貢献をした功績を認められて、「特別賞」を部活動として受賞致しました。

それらを報道する新聞記事からご覧いただきます。

書の甲子園大賞新聞報道
2007年:植木愛美
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そして次に、全国大会出品作品をご覧ください。

  • 下に掲載した書の写真は、次の順です。
     = 1977年:角屋美津子さん
     = 1990年:土屋喜美さん
     = 2003年:田角由佳さん

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寄稿文は47期の小川さんに書いていただきました。お読みください。  

pencil書道部は最高pen

       47期生 小川ちひろ(2005年書道全国大会出品)

小川さんの全国大会出品作「福如東海 壽比南山」
    ↓

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私は東横学園大倉山高校に入学し、書道部に入部したことをとても嬉しく思っています。書道部での思い出は書ききれないくらいありますが、特に思い出に残っていくことは2つあります。

1つめは、全国大会に出品参加したことです。

平成17年の夏に青森県で全国高校総合文化祭があり、私はそこに作品を出展できる機会がありました。

書道の全国大会とは、前もって作品を仕上げ夏休みに現地に行き、さまざまな県の人と交流をし、作品を見合うものでした。現地で各県の作品を見た時は、ただ圧倒されてしまいました。

しかし、その後に生徒同士の交流会でたくさんの人と話をし、書に対する理解や関心などの意見を聞くことができ、圧倒されていた心はいつしかやる気へと変わっていました。初めて会ったけれど、書という共通点で多くの仲間が出来、1泊2日の旅はとても良い思い出になりました。

 2つめは、私が3年生だった年の学園祭でした。私たちの代では、書道という一見地味に思われる考えを変えて欲しいという気持ちがあり、新入生歓迎会で大作を書くパフォーマンスをしたので、その延長で学園祭でも作品展の他にステージでデモンストレーションをしました。

2つのことを準備することは容易ではなく、初めて行うステージ発表は何から始めていいのかわからない状態であり、部員をまとめることなど考えていて、授業中は学祭の段取りを考えていることがしばしばありました。

そして本番では、多くの支えがあり、部員が一つになったおかげで大成功を修めることができ、あの頃の感動は今でも忘れられません。

 このような体験ができ、部活に熱中できたのは、環境を作ってくれた先輩やコーチ、そして恩師の佐野先生がいたからです。それを共有し、協力し合った大切な仲間と過ごした時間は一生忘れません。

 大倉山高校の書道部最高です!!

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2011年4月 8日 (金)

バスケットボール部全盛時代のこと≪大倉山五十年史vol .39≫

basketballバスケットボール部全盛時代のことbasketball

                               9期生 畑 三枝子(旧姓早川)
 僭越なことと存じますが、標題について学校より執筆依頼がありましたので、以下、思い出を書き綴りたいと思います。

諸先輩のお許しを得たいと存じます。また個人的な思い出にも触れることになる点、ご寛容願います。

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バスケットボール部が全国大会に連続出場したのは、

  • 昭和40年国体(岐阜市)、
  • 41年インターハイ(秋田市)、
  • 43年インターハイ(金沢市)のことです。

私は、2年生(秋田市)と3年生(金沢市)のときに選手として出場しました。

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秋田大会ではベスト16に入りましたが、やはり鮮明に印象に残っているのは3年のとき副主将として県大会を勝ち抜き、出場したインターハイ(石川県金沢市)のほうです。

あのゾクゾクとする感動は今でもジーンと胸を突きます。そのときは2回戦で敗退したのですが、私自身、高校生活最後の大試合で完全燃焼したので、悔いはありませんでした。

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ありがたいことにこの試合での活躍が評価され、その年の県の最優秀選手賞を頂くことができました。

 卒業式であらためて、校長先生から最優秀選手賞を表彰していただきましたが、全校生徒、父母の前でしたので、とても晴れやかで名誉に思ったことを覚えております。

ところで、卒業式の後、日比谷の日生ビルで謝恩会が行われました。

当時としてはとても珍しいスタイルの、親子ともどもテーブルマナー教室をかねた謝恩会でした。さすが東横学園だなぁと思ったことでしたが、私にとっては、この謝恩会と表彰とがあいまって、卒業の日はひときわ思い出に残っております。

ちなみに、当時の卒業式は港北公会堂(今の港北公会堂ではなくて綱島街道を菊名方面に向かって10分ぐらいのところ)で実施されました。

また岐阜の国体のときには、新幹線が開通したばかりの頃で、新横浜駅まで学校あげての見送りをしていただきました。

夏前にバスケット部をやめた友人が,

「あの時、とっても羨ましかった。私もやめなければ良かった」

と悔やんでいましたが、そのぐらい、華々しい壮行会をして頂きました。

そして宿泊先は、岐阜城の下、宝久寺町でしたが、町を挙げての歓迎でした。

東京オリンピックの翌年でまさにミニオリンピックの趣でしたから、食事の世話から何をするにも熱狂的にして下さったのです。お蔭で私たちの意気も大変盛り上がりました。

このように、私にとってバスケットボール部の思い出は華々しいものですが、練習は大変きびしいものでした。

顧問は小玉先生、コーチは山口先生でした。

小玉先生は現代国語の先生でもありましたが、山口コーチと私たちとの間を取り持って下さるなど相談役でした。いつも愚痴を聞いてくださったり健康面などを気遣って下さいました。

コーチの山口先生は他校から週3回指導に来て下さっていた先生です。私はこの先生との出会いがなかったら、本校でバスケットボールをやってなかったと思います。

とにかく勝つために一生懸命でした。遠征して他流試合を計画してくださり、時には男子校(横浜高校など)とも試合をさせてもらったお蔭で、とても力がつきました。ですから、私たちは県大会では常に優勝する自信に満ち溢れていたほどです。

先輩たちも非常に厳しく指導してくれました。特に私が1、2年生のときのマネージャーの方は、山口コーチが不在の日、指導してくれたのですが、大変厳しく、「鬼マネージャー」と呼んでいたほどでした。でも、まさしく「縁の下の力持ち」で、チームが強くあり続けるために大変な努力をして下さったのだと思い、感謝しています。

厳しかったのも当然です。当時の学校には体育館がなく校庭での練習でした。フットワークなどは階段や幼稚園(当時は大倉山幼稚園が併設されていました)の園庭が練習場でした。

ホームコートは近くの大綱中学校の体育館、横浜市のフライヤージムでした。フライヤージムは現在の横浜スタジアムの隣りですので、練習から帰校すると夜の10時過ぎでした。

このように練習場に恵まれなかったため、土日は決まって他流試合に出かけていました。でも、こういう恵まれない環境にあったからこそ、絶対に負けられないと心に誓うとともに厳しい練習にも耐えることができたのだと思います。

合宿も行いましたが、夏は勝ち進んでいましたので、夏合宿はできませんでした。

1年生のときに、冬合宿が山梨県甲府市で行われ、大晦日まで、寒い中、冷たい布団で寝たことを覚えています。松本高校のコーチが甲府の駅でロングシュートについてアドバイスしてくださったのが忘れられない思い出です。

考えてみれば、私たちバスケット部員は公式試合が連続していたため、3年生の北海道修学旅行に参加できなかったり、スキー教室に参加したくても行けなかったりで、そういう面ではクラスメートとの思い出づくりが少なかったのですが、でも、クラスメートに恵まれ、みんなから、たくさんのお土産をいただいたのが、嬉しい思い出として残っております。

修学旅行に参加できなかった代わりということかどうかはわかりませんが、3年の夏のインターハイ(金沢市)が終ったあと、顧問の小玉先生が3年生部員(4名)だけ、金沢からそのまま先生の故郷、長崎に連れて行ってくださいました。

長崎名物の皿うどん、大きな茶碗蒸しを頂きましたが、とってもおいしく、とても楽しい思い出になりました。

バスケットボール部の練習で疲れた体を、学校の近くの岩田屋さん(今のセブンイレブン)でお菓子を買って食べながら帰ったりもしました(本当は寄り道はいけないんでしょうけど)。

それから、これはバスケット部には関係ありませんが、もう一軒、校門の下にパン屋さんがあって、そこのおばさんがお昼に学校までパンを売りにきてくださっていたことも思い出します。

私たちのころがバスケットボール部の全盛時代というのは面映いことですが、全国大会に連続出場していたことによって、学校がそのように位置づけてくださるのは大変名誉なことでもあり、嬉しく思います。

以上ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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2011年4月 6日 (水)

ダンス部がくれたもの≪大倉山五十年史vol .38≫

平成20年6月に刊行した「大倉山五十年史」の掲載を長らく中断していることに気が付きました。お詫びいたします。

これからまた再開してまいります。

再開第一号は、「全国レベルの栄誉」をうけた部活動三つです。

バスケットボール部、書道部、ダンス部を「50年史」に掲載致しましたが、執筆は全国大会ゆかりの部長さんにお願い致しました。

本日は、ダンス部。

  • ところで、いま、私は付属小学校につとめておりますが、Nさんという保護者の方がダンス部の勝倉コーチのお友達でいらっしゃって、お会いすると勝倉コーチのお話をしております。こういう出会いも大変うれしいものです。

それではお読みください。 

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      47期 榎本紗織

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ダンス部では、授業では教えてもらえないようなことをたくさん学ぶことができました。

 入部したての頃の私たちは、勝倉コーチや先輩のマネをすることだけで精一杯でした。

右も左も分からず、部活に出ること自体、嫌になったこともありました。

そして、どうにか部活を続けダンスのことがわかりかけてきたころ、先輩が引退され、今度は私たちが後輩を指導し引っ張っていかなければならない立場に変わると、新しいプレッシャーを感じるようになりました。

しかし、いつも仲間同士で励ましあい支えあったことが、そのときそのときを乗り越えられたのだと振り返ることができます。    

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“出来ない”と決め付けて諦めるのではなく、常に新しいことに挑戦していくことの大切さを、勝倉コーチ(写真↑)や先輩に教えていただきました。

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3年生のときの神奈川県ダンスコンクールは、それまでも先輩方が良い成績を残し続けてこられた伝統の重みがプレッシャーともなりましたが、私たちも作品をより良いものにしていくために、練習が終わってからも部員同士で作品の意味を何度も何度も話し合いました。

この作品に出会ったことによって、「ただ踊るのではなく、自分の、自分たちの気持ちを表現することが一番大事である」という意味を理解できました。

幸い、県コンクールでは3位という好成績を収めることができ、ダンス部の伝統を守ることができましたが、何よりも嬉しかったことは、県高校ダンス部連盟の推薦によりその年の「全日本高校・大学ダンス=フェスティバルin神戸」への出場を果たすことができたことです。

この経験によって、技術面だけでなく精神面でも大きく成長することができ、自信へとつながりました。
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 勝倉コーチには踊り以外のことでも相談にのっていただきました。コーチと一緒に作品を作れた時間は私の大切な思い出です。

ダンス部を引退するときには、部員全員がとても価値のある3年間を過ごすことができたことを感じていたと思います。

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共に頑張った仲間、コーチ、先生方のおかげで、誰にも負けない素晴らしい高校生活を送ることができました。

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2010年12月 2日 (木)

雀の死@生徒会誌「しばつゆ」(その3)≪大倉山五十年史vol .37≫

おととい、きのうに続けて、「しばつゆ」からの「五十年史」に掲載したものの転載です。

きょうは「詩」のような趣の文章です。詩のページに掲載されていたものではありません。文章もひとつながりになっていたものです。

ただ、ひとつながりのままブログに掲載すると大変読みにくく思えたものですから、文章ごとに段落を変えました。そうしたら、一文一文がきわだってきて、詩の趣を呈してきました。ご了解ください。

途中、雀が「煤で黒くよごれ」という表現があります。石炭ダルマストーブから出てくる煤(すす)でしょうね。この時代、冬は木造校舎のなかで、ダルマストーブに石炭をくべて暖をとっていたのです。

chick昭和40年代の生徒会誌「しばつゆ」より(その3)night 

【 雀の死 】

    (生徒会誌「しばつゆ」1964.3月より)

ある日教室の煙突にまぎれこんだ雀が・・・・・

授業中に 飛びこんで来た

ほとんど落ちてくるように―。

雀は弱っていた

煤で黒くよごれ、人を見てこわくても逃げられぬ雀

飛べないのだろうか。

しばらくの間机の中に入れお弁当をやった

又眼をつぶる・・・私を見る。

時々いらだつように歩く。チッチッ、チッチッ。

だが雀はその日死んだ。

親を思い兄弟を慕いながらも飛んでいけなかったこの雀がなんだか哀れでならなかった。

羽を広げ、ぐるぐるぐるぐるまわる雀。

苦しがっている鳥、雀。

昼休み―友と二人 子の哀れな雀を 葬ってやった。

この雀の肉親がどこにいるのかと捜しまわっているのではあるまいか。

眠れ安らかに魂よ― 

私達があなたの肉親のかわりに悲しみ葬ってあげよう・・・・。

以上です。私の大倉山経験のなかでは、雀や鳥が教室に飛び込んでくることはありませんでしたが、サッシの窓に鳩やカラスがぶつかってベランダに落ちるということは何度かありました。

虫は教室に飛び込んできましたね。そうすると、皆さんも十分ご承知のことですが、その虫が飛んでいる周辺の子はキャーキャーワイワイ、授業になりませんでした。虫ぐらいなんだと言おうものなら・・・・・・でしたね(笑)。

きのうもおとといも書いたことですが、それにしても「しばつゆ」に掲載されている文章はどれも達意。すごいなあと思います。

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2010年12月 1日 (水)

沼津=海と波と夕焼=@生徒会誌「しばつゆ」(その2)≪大倉山五十年史vol .36≫

今日もきのうの続きで昭和40年代の生徒会誌「しばつゆ」より掲載した記事を紹介します。沼津臨海学校の体験記です。波乗りを体験されたというので、時代の先端を走っておられましたね。

今はサーフィンといいますが、昭和50年代半ばまで、サーフィンのことを「波乗り」と言っていました。

下の写真は【五十年史】の同じページに掲載した写真です。

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【 沼津 =海と波と夕焼= 】

    「しばつゆ」1964.3月より

「真赤な太陽。七色の光を発散した夕焼。果てしなく続く深緑の海。そして、青味がかった空。そこには孤独が漂っていた。」

「きれいだ!・・・」

私は思わず、まばたきをしそうにつぶやいた。海の向こうに沈む太陽が、甘い哀愁と、優しい者を投げ出していた。

夕焼けで海までも赤くなった人気のない海岸へひとっぱしりに走って待ってみたかった。・・・私は一人になりたかったのだ・・・・・。

悠々とせまってくる素朴な波、そして神秘なこの夕焼け。私はこんな大自然を、かつて見たことがない。

「素敵だわ!・・・・」

そう思って、飛び上りたい程に不思議に、嬉しくなってしまった。

『横浜にはあんなきれいな夕焼も、あんなに素朴な波もない。あるのはごった返す群象と、絶え間ない雑音だけだ。』

大陽がもう少しで地平線に、隠れそうになった時、何故が急にこんな複雑な思いが、私の胸に涙が流させた。

 海から上がって、入浴にはまだ間があるので、廊下に立って海を見ていた私は、こんなロマンテックな私になっていた。

それでいてさっきまでの楽しく、おかしかった波乗りのことを思い出して、思わず顔がほころぶ自分が、はがゆかった。

 ザーザーザブーン、ザザザーザザザー。

海は荒れていた。

寄せては引き又寄せる大波を相手に、必死に戦っていた私。

時々、波と私のタイミングが狂って、波の中へほうり込まれる。そうなったらお家の一大事だ!。

無我夢中で、起き上がろうとする。しかし、勢いの激しい波は、小さな私をまるで、小石でも運ぶ様に、海岸ぎわ迄、運んでしまう。

海中では自分がどうなっているのか、さっぱりわからない。でも、小石までもが私をいじめるのが解った。

頭も顔も水の圧力によって小石におしつけられ、面白なく負傷だ。塩からい海で、その痛さは何とも言えなかった。

波の勢いもなくなった頃、

「もう平気だ。」 

と思って、海水にぬれた顔を、手でふきふき起き上る。

でもいじわるな波は、やっと戦いからのがれた私を、すかさず後から、白いしぶきを立てて、凄い勢いで追いかけてくる、又、前に倒れてしまう。今度はひざこぞう位の所なので、直ぐ起き上がれる。

私はこわくなったので、砂浜までかけて逃げた。

波が非常に憎らしく、口惜しかった。

それに笑っている友人も、うらめしかった。砂浜に立って思いっきり波を、にらみつけてやった。

でも、こんなに興奮している私を無視したかの様に波は、相変らず単調な動きと、憂愁を漂わせていた。

しかし波は、憎らしいが、優しくなる時もあった。

タイミングが、がっちり合って、高い波にのって、そして、波が過ぎて行く時の気持の良さ。すっーと。

丁度ブランコをこいで後に返る時の様な、全く軽快な心持だ。

そんな時は浜で、波に笑ってあげる。だって自然と口元に笑いが漂ってしまうんですもの。

余りにも胸がずっーとして……。

「サエちゃん、もう行ってみない?」

波のりのことを、一つ一つ思い出していたら、背後にこんな声がした。私は我に返って、洗面道具とバスタオルを取りに室へ急いだ。

以上です。昨日の方もそうですが、このころの大倉山高校生は書く文章書く文章、大変文学的ですね。読んでいて行間にさまざまなものを想像させられます。

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2010年11月30日 (火)

昭和40年代の生徒会誌「しばつゆ」より(その1)≪大倉山五十年史vol .35≫

きょうで11月もおしまい、平成22年=2010年もあと一ヶ月となってしまいました。これからあわただしい年の瀬となりますが、お体にお気をつけて年末をお過ごしください。

さて、きょうは、久しぶりの【大倉山五十年史】からの引用掲載です。

五十年史は、昨年の12月24日に私の校長巻頭言を掲載して以来のことですから、一年近くもほったらかしにしていたことになります。途中、【大倉山の歴史】カテゴリーに属することは書いてきましたので、一年近くも大倉山の思い出振り返りを放っておいたつもりはないのですが、【五十年史】を放っておいたのは反省いたします。

  • 今までに掲載した【大倉山五十年史】の記事は、左欄カテゴリーの「大倉山五十年史」をクリックすればすべて読むことができます。あわせて「大倉山の歴史」、そして「ありし日の母校」、その「番外編」も、お時間のあるときにご覧ください。一度お読みになっている方も、読み返していただくと思い出にひたっていただけるのではないかと思います。
    この年末に、思い出にひたるなど、そんな悠長なことはしていられないかもしれませんが・・・m(。。)m

平成年間に入って生徒会誌「やまざくら」が創刊され最後まで続いて発刊されましたが、本校草創からまもないころ、昭和40年代に「しばつゆ」という生徒会誌が発行されておりました。

その中から、いくつかの記事を【大倉山五十年史】に収録しております。それを何回かに分けてこの校長日記ブログに掲載いたします。

↓ きょうはその第一回。どうぞお読みください ↓

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(「しばつゆ」 1964.3月より)

【 わがクラス 】

 尊敬すべき先輩には、見習う事も沢山あろうが・・・・。

ある日・・・・・。

先生が なかなか来られないとみえて、教室の中は、ペチャペチャワイワイ、見張りらしきものが、

「先生きたわよ シー」

とたんに、ガタガタ、シーン、この静けさは 義務教育九周年間プラス二年間に習いおぼえたとみえる。

先生に礼をして着席、先生は、B組一同をにらみつけるような顔つきで見わたす。

一言お小言を言いたそうな感じだが、女生徒のお喋り好きなのを、理解してくれているのか、いないのか、やはりやめた様な様子。

私達は、今までの騒ぎとは、まるで関係のないような、そしらぬすまし顔。

さて、一時間目が始まってみると、

 じっと先生の顔を見つめたままの者

 忙しそうに後をふりかえっては、小さくたたんだ白い紙を渡すペンパル。

 鉛筆を削りながら、おとなりに時間を知らせる篤志家、

 ドロンとした目つきで、話を聞いているのか、いないのか、机にしがみついているナマケモノ。

そのうちに、終りを知らせる美しいチヤイム。

とたんに目がさえざえとして

「鳴った!!」

・・・とわね。            (以上)

1964年3月発行の「しばつゆ」ですから、昭和39年。ですから昭和40年代の生徒会誌というのは一年不正確ですが、ご勘弁ください。

この時代に在校していなくても、なんだか、誰もがにんまりとするような教室の活写ですよね。文学的情緒のある文体で書かれてあって、いろいろと想像させられます。

そういえば、昭和39年は私はまだ小学生。高校生はあこがれの的でした。

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2009年12月24日 (木)

五十年史巻頭言5 校長 重永睦夫 ≪大倉山五十年史vol .34≫

  • 今日、塩尻出張です。五十年史をお読み願います。
  • これまでに掲載した「大倉山五十年史」は左欄カテゴリーの「大倉山五十年史」をクリックすればすべてご覧になれます。

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 天空の城 ラピュタ♪神代ながらにしずまりて永遠にゆるがぬ♪~

            校長  重永睦夫

 東横学園大倉山高等学校は半世紀の歴史を背に、平成20年、東京都世田谷区等々力の東横学園高等学校と統合します。

 私の胸には「感傷に沈む心」と「大いなる感慨」の二つが去来します。

 「感傷に沈む心」とは、いうまでもなく、この大倉山の地に別れを告げる言いえぬ寂しさです。

 しかし、それを超える「大いなる感慨」が沸いてきます。それは、この小さな大倉山高校が半世紀に及ぶ歴史を刻んだという誇りです。

 大倉山学園時代から数えれば、68年の歴史です。

 尊大な言い方をお許し願えば、

「見よ!この小さき学校にして五十年もの歴史刻みたるを」

 ・・・胸を張って大空に吼えたい気持ちがあります。

 とりわけ統合決定から三年間の在校生が、さまざまな苦難を乗り越え迫力満点の高校生活を送り、学校の有終の美に自身の有終の美を見事に重ね合わせて立派に巣立った。

 そのことによって、大倉山高校は、「天空の城ラピュタ」のごとく伝説的存在として語り継がれる学校となりえ、私どもは運命的にそこの教師でいられた・・・「感傷」を埋めるかけがえのない財産です。

 本校は輝かしい歴史を有します。

 わずか創立九年にして(1964年)バスケットボール部が神奈川県大会に優勝し全国大会に出場。それから三年連続で全国大会出場を勝ち得、県の強豪校の名をほしいままにしました

 創立20年目には(1977年)、神奈川県代表として書道全国大会出品を果たし、その後四度にわたる全国大会の栄誉を勝ち得ました。県高校教育書道展では県知事賞獲得常連校でした。

 2007年、「書の甲子園」大賞を受賞(文部科学大臣賞に次ぐ第二席)、有終の美を飾りました。

 ダンス部も神奈川県ダンスコンクール八年連続上位入賞、全国ダンスフェスティバル出場。

 かながわゆめ国体ヨット競技全国四位入賞。

 以上の栄誉のほか、地域奉仕において吹奏楽部や太鼓部が熊野神社の七夕演奏会や保育園行事に招かれたり、ボランティア委員会が横浜市長表彰を受けたりしました

 これらのことを一学年百名程度の小さな高等学校が成し遂げたわけです。

 また卒業してからも、著名な梅宮アンナさんをはじめ、多くの卒業生が各方面で活躍しています。

62_65_1962s37school_photo_from_air6265_1992h4school_photo_from_air  本校を航空写真で眺めるとダイヤモンドの形に見えます。

  • ←左が1962年(昭和37)、右が1992年(平成4)の航空写真

 まさに「小さくともきらりと光る」高等学校でした。

 累積赤字を克服できず少子化時代の波を乗り越えられなかったことは慙愧にたえませんが、県下最小の学校が半世紀に及んで大倉山の丘に立ち誇った光輝は決して消えることはありません。

0912keisai_taranat_school  なおかつ、カンボジアの地に「大倉山高校」の文字が刻まれた学校が建ち、本校はそこにも受け継がれます。校歌「神代ながらにしずまりて永遠にゆるがぬ」さながらに・・・本誌「五十年史」がそれを雄弁に物語ります。

 嗚呼!大倉山五十年 皆様ありがとうございました。

 末筆で失礼ですが、神奈川県私学協会、県学事振興課、公立中学校協会、横浜市港北区役所、太尾・師岡熊野両神社、商店街や本校近隣の皆様をはじめ本校に温かなご支援を賜った皆様に厚く御礼と謝意を表します。

 また、本校卒業生、入学生、御父母、五島育英会、東急ファシリティ、歴代校長はじめ歴代教職員の皆様の末永い弥栄をお祈り申し上げます。

 本校の光輝と有終の美は皆様のお蔭でした。

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2009年12月18日 (金)

五十年史巻頭言4 山口裕啓五島育英会理事長 ≪大倉山五十年史vol.33≫

  • これまでに掲載した「大倉山五十年史」は左欄カテゴリーの「大倉山五十年史」をクリックすればすべてご覧になれます。

「大倉山五十年史」シリーズは、11月18日より、巻頭言を掲載しております。今日は、五島育英会理事長の原稿です。

理事長には、49期生まで全員立派に卒業させたい、誇りをもって卒業させたいという私どもの思いを受け止めていただいて、陰日なたとなって、ご支援いただきました。

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         学校法人五島育英会
           理事長  山口裕啓

 東横学園大倉山高等学校は、昭和15年に大倉山女学校をその前身として創立され、昭和18年に財団法人大倉山学園・大倉山高等女学校となりました。

 終戦後、学制改革、新教育の実施に伴い、私立学校法により財団法人から学校法人へと組織変更、昭和31年には学校法人五島育英会・東横学園大倉山高等学校となり、爾来五十年に亘り一貫して女子教育に邁進いたしてまいりました。

 この間、今日まで本校が六千名を超える優秀な卒業生を送り出し、社会に貢献してまいることが出来ましたのも、ひとえに支えていただいた関係者の皆様のお蔭でございます。

 その時々の在校生の保護者の方々の学校へのご理解とお子様への愛情、生徒の皆様の卒業されてからの同窓生としての絶えざるご支援とご協力、本校を地域の一員として受け入れて下さった地元の方々の温かい心、加えて歴代の校長をはじめとする教職員の献身と努力、これらに支えられて本校の五十年の歴史が作られました。関係各位の絶大なるご支援に厚く御礼申し上げる次第です。

 本校は、建学の精神等優れた理想を掲げ、私学ならではの独自の理念に沿った良質の教育を通して豊かな人間性と広い視野をもる優れた人材を育成してまいりましたが、平成20年3月の卒業生を最後として、姉妹校である東横学園高等学校と統合し、この地を離れることとなりました。

 両校の統合が定められてからの三年間は、重永校長、佐野教頭をはじめとする本校教職員が、厳しい環境の下で、関係各位のご懸念を払拭し、本校の教育の質の維持・向上を計られ、大倉山の地から最後となる卒業生を無事送り出されたことは、特筆に価すると思います。

 本校の良き伝統が統合先の東横学園高等学校(重永注:現東京都市大学等々力高等学校)と融合し、より魅力のある学園の創造に向けて、更なる発展を遂げることが可能となりますよう、関係各位の皆様方のより一層のご支援、ご協力を切にお願い申し上げます。

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2009年12月16日 (水)

五十年史巻頭言3 生徒会第49期 齋藤美紀会長 ≪大倉山五十年史vol.32≫

0810_50nensi_kantougen3_saitoumikik 心に永遠に生きる満開の山桜とにぎやかな学校、そして完全燃焼

 49期生徒会長 齋藤 美紀

 本記念誌の原稿依頼がきたとき、私は正直なところ書きたくありませんでした。書く事が嫌なのではなく「卒業する」ということと「学校が無くなる」という実感をまだ味わいたくなかったからです。

 入学してまもなく、初めての体育祭を目の前にして「統合」が発表され、普通の高校生から一瞬にして特別な高校生にかわってしまいました。様々な不安が頭をよぎり、何もかも嫌になりかけ転校を考えた事もありました。

 そこまで考えた私がこの学校の生徒でいようと思ったきっかけは『友達と先生方』です。こんなにも仲良くなれた友達がいるということ、そして生徒一人一人に親身になって接してくださる先生方がいるということに気付いたからです。

 一年生の二学期が終わりに近づいた頃、当時の鈴木生徒会長に生徒会役員に立候補してみないかと誘われたこときっかけで役員になり、新しい宮村生徒会長の下で一年間活動しました。

 初めての事だらけで何も分からず、ついていくことが精一杯でしたが、学校生活において改善すべき点はどこか等をみんなで案を出し合いました。二学年だけによる行事が最大の問題でしたが、人数に見合ったものに変える工夫をし、無事成功させることができました。

 任期はあっという間に終わり、再び生徒会選挙の時期がきて来期も役員をやるかどうか悩みました。でも、一学年だけになっても生徒みんなの力で充実した思い出の深い学校生活にしたいと考え、生徒会長に立候補しました。

 私を含め前生徒会役員4名と新たに加わった2名、計6名の役員で新たなスタートをきりました。私達の代では、一学年しかいない中で行事をどうするのかということに一番時間をかけて話し合いました。

 体育祭では、実行委員会の案で上位入賞に副賞を与える制度をつくるなど工夫をこらし、当日は一学年とは思えないほどおおいに盛り上がりました。学園祭では一学期から準備を始めることによりスタッフが少ないことを十分補うことができました。

 全校制作物「缶アート」では、缶の色だけで校章を描き出しました。たくさんの人の協力で生徒会室が缶いっぱいになり置き場に困るほどでした。缶を数え色分けすることが何より大変でしたが、今思うとその時間が一番充実していたように思います。

 こうして最後の学園祭は、例年以上に古川先生をはじめ先生方、卒業生、保護者の方々など大勢の人に支えられたものとなりました。しかし、この日を迎えるまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

 役員のほとんどが生徒会だけでなく部活を掛け持ちしています。学園祭が近づけば当然部活の準備も迫ってきます。でも、生徒会の仕事も山のようにあるのです。みんな自分のことで精一杯でした。

 そのせいか役員がなかなかまとまらず、生徒会長としての力不足を実感しました。

 本当に私が生徒会長になってよかったのだろうか、生徒会長になんてなるんじゃなかったと後悔したこともありました。何としてでも有終の美を飾らなくてはいけないというプレッシャーをいつのまにか自分にかけていました。

 そんな私を周りの人は助けてくれるのです。自分だってやることがあるはずなのに・・。多くの人に助けられ、支えられ、だから今の私がいるのだと、そして改めて仲間の大切さを知りました。

 当たり前のように過ごしていた日常が、永遠に続くように思えた日常が終わろうとしています。寂しさでいっぱいですが、満開の山桜と、にぎやかな学校は心の中に永遠に残ります。数少ない不易不変ではないでしょうか。私はこの不易不変を大事にしていこうと思います。

 最後になりますが、学校統合にあたり等々力校の方に継いで欲しい事は特に思い当たらないのです。

 それほど私たちは完全燃焼しました。

 大倉山生は大倉山生らしく、等々力生は等々力生らしくありのままでいることが良いと思います。これが私の3年間と最後の生徒会長としての願いです。  (以上)

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2009年12月 8日 (火)

五十年史巻頭言2 後援会第49期小笠原悦子会長 ≪大倉山五十年史vol.31≫

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「大倉山五十年史」シリーズは、前回11月18日から、巻頭言にうつりましたが、今日はそのお二人目。後援会会長をおつとめいただいた小笠原さんの原稿をお読みいただきます。

大変ご苦労いただきましたが、万感あふれる文章を寄せていただきました。

0810_50nensi_kantougen1_ogasawaraka 東横学園大倉山高校50周年にあたり

 49期後援会会長 小笠原悦子

 この度は東横学園大倉山高等学校50周年、誠におめでとうございます。この記念すべき年に後援会会長として寄稿させていただくことに不思議なご縁を感じております。

 また、50周年という節目の年が、大倉山高校の最後の年となることに、時代の流れを感じずにはいられません。

 私が大倉山高校を知ったのは長女の高校受験に際し、仕事先でご一緒だった方のお嬢さんが通われていると偶然話をお聞きしたことがきっかけでした。

 校風が娘にあっているかもしれないと思い、パシフィコ横浜の学校説明会で話を聞き、夏の学校見学で初めて高校を訪れました。授業体験等で親子ともども大倉山高校の魅力に触れることができました。

 2005年4月8日(金)、第49回生として新入生79名は希望を胸に入学しました。その1ヶ月半後に、「東横学園高等学校との統合、平成20年度から新生東横学園高等学校の発足」という知らせを受けました。

 在校生と保護者、そして先生、同窓生にも大変衝撃的な事実でした。そしてこの事実をうけとめざるを得なかった生徒たちが、その後の高校生活をたくさんの人に支えてもらいながら、自分たちの力を出し切って、そして胸をはって卒業していくことができることに、私たち保護者は感謝と安堵感でいっぱいです。

 生徒たちは、2学年でも1学年でも体育祭や学園祭、部活動等で勝るとも劣らない頑張りをみせました。かなわなかったこともたくさんありましたが、学ぶことも多い3年間でした。

 同窓生もたくさん応援してくれ、学校行事にはかけつけてくれました。大先輩にもお手伝いをしていただきました。同窓会の一番の若手として仲間入りする最後の学年をこれからもどうぞよろしくお願いいたします。

 また、後援会が50周年記念事業に積立した費用は、学校と協力しながら、NPO法人「JHP・学校を作る会」に寄付することとなり、2007年8月にカンボジアのバッタンバンという地にターナッ小学校の新校舎を贈呈することができました。

 JHP代表の小山内美江子さんのご挨拶を、重永校長先生が毎日インターネットで更新されている「校長日記」のホームページから抜粋させていただきます。

 『本日は尊いお坊様をはじめとして郡長さん、教育省長官のご列席を仰いで、ターナッ小学校の新校舎贈呈式を行うことができるのはJHPとして大きな喜びであります。

 この校舎のドナーさんは東横学園大倉山高等学校という大変伝統のある高校です。

 その高校がこのほど、めでたく50周年を迎えることとなり、その記念事業のため、生徒さんをはじめ親や保護者の方が寄付を積み立ててこられた浄財で、このターナッ小学校に校舎を建設されることになり、本日、校長先生をはじめ今年の卒業生や在校生の方がこの素晴らしい贈呈式に参加されました。

 カンボジアではまだまだ学校が足りませんが、日本では、二つの学校が合併することがあります。

 ドナーの大倉山高校がまさにそれであり、しかし、新しい校舎を建てることでカンボジアの大倉山高校として、いつまでもこの地に存在することになります。

 ですから、この新しい校舎で学んだ生徒さんたちは、しっかり勉強するだけではなく、ドナーさんのボランティア精神を受け継ぎ、世界に羽ばたいていけるような立派な人に育っていってください。』

 2008年3月2日(日)、大倉山高校最後の生徒72名が卒業していきます。

 50年の歴史は閉じられるのではく、同窓生や先生たちの心の中にも受け継がれていくことを願っています。

 最後に、一緒に頑張ってきた後援会会員の皆さん、3年間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

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