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2009年1月20日 (火)

続き 「戦争のころ」:≪東横学園二十年史よりvol.2≫

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  • 例えば、「学園祭」と打ち込みますと、平成17年から昨年の東横文化祭までの学園祭に関連する記事を全て読むことができます。どうぞお試しください。
  • キーワードを二つに分けて(間に空白を入れて)打つこともできます。例えば「平成18年 学園祭」と打つと平成18年の学園祭記事だけを検索できます。

前回の続きです

17日の続きです。

090113touyoko20nensi00_ookurataka_2 五島育英会書庫で見つけた「東横学園二十年史」(昭和34年発行)より大倉山学園創立者高野平先生の「合併前の大倉山学園」という文章の続きです。

  • 富士山の写真は私が挿入したもの、大倉山高校の配置図は二十周年誌に載せられてあったものです。
  • 本日の高野先生の文章には戦時中の学徒徴用(戦争の後方支援ということで学生を工場などで働かせること)の話が出てきますが、そのことは「大倉山五十年史」の略年表に掲載致しました。

では続きをお読みください。※読みやすくするため、段落を変えたところがあります。

090113touyoko20nensi011_ookurayamak  合併前の大倉山学園」

 大倉山学園創立者 高野 平(たかの・たいら)

 ※高野先生は東横学園大倉山高校では講師として女学生を指導されました

二、待望の新校舎

090122_070224fuji  待ち望んでいた新校舎が竣工した。木の香も高い新しい教室、富士の秀嶺をまともに仰ぎ得る校庭、空気清澄、真に選ばれた教育環境である。

 待ちこがれた生徒たちの喜びは、言語に絶するものがあった。富士の姿をそのままに、強靭な意志の育成こそ、教育目標の主軸であった。

 創設二年、三年と生徒の数も増していったが、日支事変は(にっし事変・・・重永注:1937年盧溝橋事件-ろこうきょう事件-に始まる日本と中国の戦争)、世界大戦と化し、生徒は動員されて、綱島の安立電気に、菊名の天野工場にと徴用され、学校に残るは僅かに(わずかに)一年生だけが、教室での勉学の機会を得るに止まり(とどまり)、二年生から四年生までは(重永注:戦前の学制によるので女学校に四年生がいます)、ことごとく工場への協力を要請されたのであった。

  • (重永注:天野工場は今でも菊名にあります。高木学園のお隣です)

 各先生方は分担をきめて各徴用工場に出張し、生徒の安全と指導とに力を注ぎ、余暇を見て僅かに教科の教育に当たるの外(ほか)はなかった。

 しかしながら、緊張した生徒と教師との人格の交渉は、如何なる環境に置かるるとも、自らを育成する資料たり得るものとして、教育の本質を逸脱することなく、教科学習の欠如を補って、人間育成に役立たしむることを忘れなかった。

  • 2006(平成18)年5月25日記事(←クリック)で紹介したことですが、実は高野平先生のお嬢さんは、終戦の年の横浜大空襲で、米軍B29が投下した焼夷弾(しょういだん)によって全身に火傷(やけど)を負われました。
  • 親にとって我が子の心身の痛みはそれ以上の辛さをもたらしますが、戦争のことをお書きになっていらっしゃるのに、高野平先生はお嬢さんの大火傷には一言も触れておられません。
  • 公私の別をわきまえた人格者であられたことが偲ばれます。お譲さんの大火傷については、昭和年間に編纂された「横浜大空襲戦災史」という資料集に、お嬢さんご自身が手記を書かれています。上にリンクをはりましたので、ぜひご一読再読いただければと思います。

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