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2011年4月 8日 (金)

バスケットボール部全盛時代のこと≪大倉山五十年史vol .39≫

バスケットボール部全盛時代のこと

                               9期生 畑 三枝子(旧姓早川)
 僭越なことと存じますが、標題について学校より執筆依頼がありましたので、以下、思い出を書き綴りたいと思います。

諸先輩のお許しを得たいと存じます。また個人的な思い出にも触れることになる点、ご寛容願います。

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バスケットボール部が全国大会に連続出場したのは、

  • 昭和40年国体(岐阜市)、
  • 41年インターハイ(秋田市)、
  • 43年インターハイ(金沢市)のことです。

私は、2年生(秋田市)と3年生(金沢市)のときに選手として出場しました。

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秋田大会ではベスト16に入りましたが、やはり鮮明に印象に残っているのは3年のとき副主将として県大会を勝ち抜き、出場したインターハイ(石川県金沢市)のほうです。

あのゾクゾクとする感動は今でもジーンと胸を突きます。そのときは2回戦で敗退したのですが、私自身、高校生活最後の大試合で完全燃焼したので、悔いはありませんでした。

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ありがたいことにこの試合での活躍が評価され、その年の県の最優秀選手賞を頂くことができました。

 卒業式であらためて、校長先生から最優秀選手賞を表彰していただきましたが、全校生徒、父母の前でしたので、とても晴れやかで名誉に思ったことを覚えております。

ところで、卒業式の後、日比谷の日生ビルで謝恩会が行われました。

当時としてはとても珍しいスタイルの、親子ともどもテーブルマナー教室をかねた謝恩会でした。さすが東横学園だなぁと思ったことでしたが、私にとっては、この謝恩会と表彰とがあいまって、卒業の日はひときわ思い出に残っております。

ちなみに、当時の卒業式は港北公会堂(今の港北公会堂ではなくて綱島街道を菊名方面に向かって10分ぐらいのところ)で実施されました。

また岐阜の国体のときには、新幹線が開通したばかりの頃で、新横浜駅まで学校あげての見送りをしていただきました。

夏前にバスケット部をやめた友人が,

「あの時、とっても羨ましかった。私もやめなければ良かった」

と悔やんでいましたが、そのぐらい、華々しい壮行会をして頂きました。

そして宿泊先は、岐阜城の下、宝久寺町でしたが、町を挙げての歓迎でした。

東京オリンピックの翌年でまさにミニオリンピックの趣でしたから、食事の世話から何をするにも熱狂的にして下さったのです。お蔭で私たちの意気も大変盛り上がりました。

このように、私にとってバスケットボール部の思い出は華々しいものですが、練習は大変きびしいものでした。

顧問は小玉先生、コーチは山口先生でした。

小玉先生は現代国語の先生でもありましたが、山口コーチと私たちとの間を取り持って下さるなど相談役でした。いつも愚痴を聞いてくださったり健康面などを気遣って下さいました。

コーチの山口先生は他校から週3回指導に来て下さっていた先生です。私はこの先生との出会いがなかったら、本校でバスケットボールをやってなかったと思います。

とにかく勝つために一生懸命でした。遠征して他流試合を計画してくださり、時には男子校(横浜高校など)とも試合をさせてもらったお蔭で、とても力がつきました。ですから、私たちは県大会では常に優勝する自信に満ち溢れていたほどです。

先輩たちも非常に厳しく指導してくれました。特に私が1、2年生のときのマネージャーの方は、山口コーチが不在の日、指導してくれたのですが、大変厳しく、「鬼マネージャー」と呼んでいたほどでした。でも、まさしく「縁の下の力持ち」で、チームが強くあり続けるために大変な努力をして下さったのだと思い、感謝しています。

厳しかったのも当然です。当時の学校には体育館がなく校庭での練習でした。フットワークなどは階段や幼稚園(当時は大倉山幼稚園が併設されていました)の園庭が練習場でした。

ホームコートは近くの大綱中学校の体育館、横浜市のフライヤージムでした。フライヤージムは現在の横浜スタジアムの隣りですので、練習から帰校すると夜の10時過ぎでした。

このように練習場に恵まれなかったため、土日は決まって他流試合に出かけていました。でも、こういう恵まれない環境にあったからこそ、絶対に負けられないと心に誓うとともに厳しい練習にも耐えることができたのだと思います。

合宿も行いましたが、夏は勝ち進んでいましたので、夏合宿はできませんでした。

1年生のときに、冬合宿が山梨県甲府市で行われ、大晦日まで、寒い中、冷たい布団で寝たことを覚えています。松本高校のコーチが甲府の駅でロングシュートについてアドバイスしてくださったのが忘れられない思い出です。

考えてみれば、私たちバスケット部員は公式試合が連続していたため、3年生の北海道修学旅行に参加できなかったり、スキー教室に参加したくても行けなかったりで、そういう面ではクラスメートとの思い出づくりが少なかったのですが、でも、クラスメートに恵まれ、みんなから、たくさんのお土産をいただいたのが、嬉しい思い出として残っております。

修学旅行に参加できなかった代わりということかどうかはわかりませんが、3年の夏のインターハイ(金沢市)が終ったあと、顧問の小玉先生が3年生部員(4名)だけ、金沢からそのまま先生の故郷、長崎に連れて行ってくださいました。

長崎名物の皿うどん、大きな茶碗蒸しを頂きましたが、とってもおいしく、とても楽しい思い出になりました。

バスケットボール部の練習で疲れた体を、学校の近くの岩田屋さん(今のセブンイレブン)でお菓子を買って食べながら帰ったりもしました(本当は寄り道はいけないんでしょうけど)。

それから、これはバスケット部には関係ありませんが、もう一軒、校門の下にパン屋さんがあって、そこのおばさんがお昼に学校までパンを売りにきてくださっていたことも思い出します。

私たちのころがバスケットボール部の全盛時代というのは面映いことですが、全国大会に連続出場していたことによって、学校がそのように位置づけてくださるのは大変名誉なことでもあり、嬉しく思います。

以上ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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