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2016年9月29日 (木)

16期卒業生の「卒業記念品」 教室用の連絡掲示板

平成20年(2008)6月21日掲載の「ありし日の母校」から再掲します。

present卒業記念品camera

080614sotugyokinen_ura_16ki_1 16期卒業生の卒業記念品です。

教室の連絡掲示板。

16期というのは、080614sotugyokinen_ura_16ki昭和50年(1975年)卒業生

ですから、その後の人たちが使ったものです。

私が本校に就職したのは昭和52年ですから、私が大倉山に来る二年前の卒業生が送ってくださったわけです。

 そういえば、いつか詳しく書きたいと思いますが、私が初めて上京するときに電車の中で会った人が大倉山在住の方でした。そのときは、私が大倉山に勤めることになるとは夢にも思っていませんでした。その一部顛末は後日のお楽しみに。

  • (後日追記) 上の顛末、6月27日の記事に書きました。(←クリック)

 さて、記念品の掲示板に話を戻します。

 この掲示板、教室では、後ろの壁の真ん中にぶら下げられていました。中には端のほうにぶらさげられていた教室もあったときもある記憶があります。

 教室の前ではなく、後ろですから、掲示補助板として使われていたのですが、往々にして、生徒の皆さんの落書き板になったりもしましたね。

080614_070516koyomi ところで、事務室窓口のところに日めくり暦がかかっていましたが、暦がかかっていたのも同じ掲示板です。

 卒業記念品として全部で20個ほど贈呈されました。

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2016年9月21日 (水)

1968年の卒業アルバムから(日本一ながい修学旅行)ありし日の母校より

平成20年(2008)5月29日に掲載した記事です。

cameraありし日の母校 vol.10train

0805_68syuugakuryoko_sinbun1968年の卒業アルバム からです。

当時の本校修学旅行は、長いときは車中泊を入れて11泊ということもありました。週刊誌の特集記事で「日本一長い修学旅行」に選ばれたこともあります。

 上の写真は、青函連絡船が函館に着き、本校の修学旅行団が函館市から歓迎される様子を現地新聞が報道したものです。

写真キャプションに「函館市から歓迎の花束を贈られる東横学園の生徒たち」とあります。

記事本文には次のように書かれています。

  • (注:写真がぼやけているので不明の部分は<・・・>で表しました。また文脈から推測して起こした文章もあります)

ようこそ「エルム号」 観光列車第一陣本道入り

六日、東京をスタートした北海道観光列車「エルム号」の第一号が七日午前十時三十分、青函連絡船「十和田号」で北海道入りし、函館市、同観光協会から・・・女子職員らが・・・駐車場で「ようこそ」と出迎え、花束を贈った。

 この日、北海道入りしたのは、横浜市の東横学園大倉山高等学校の修学旅行生を始め420人で、・・・・・・。一行は、同夜、湯川温泉で一泊し、八日午前・・・発で札幌へ向かい、その後、釧路・・・など道内で七泊する。(以上)

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2016年9月16日 (金)

再掲記事 「克って勝つ」 「克って打つ」

平成17年(2005)9月22日木曜の再掲記事(2)です。

学年通信に樋口先生が紹介した新聞記事について触れたものです。

         ↓ 

■きょうの最後は、「2学年通信 9月10日 第⑤号」にちなんだ話をしたいと思います。

050922gakunentuusin_2nen 左の写真がその学年通信ですが、右下の欄から裏側にかけて「新聞記事より」と題したコラムがあって、毎日新聞より<学校と私;恩師の言葉「克って勝つ」>という話が副担任H先生の手で紹介されています。

五輪銅メダリストの柔道家、日下部基栄さんのことです。日下部さんは恩師園田先生に教わった「克って勝つ」という言葉(己に克てないと相手に勝てない」という意味)が大好きで、それに支えられてこれまでの柔道人生を歩いてきたし、これから結婚した後の人生も歩んで生きたいというような趣旨です。

■私はこれを読んで、私の剣道の恩師、緒方先生、本郷先生というお二人に教わった言葉を思い出しました。それは「打って勝つのではなく、克って打つのだ」ということです。私など、剣を構えたら、しゃにむに相手を打ち負かすのがいいのだとばかり、とにかく打つことに集中していたのですが、「克って打つ」のでなければ勝てないということを教わりました。

 己に勝ち、相手を呑みこむ精神力をもって、はじめて打って出よ!ということですが、同じようなことばをもう一つ紹介します。同僚のT剣士が高段者に稽古をつけてもらった後、「私の剣道はどこが悪いでしょうか?」と教えを乞うたところ、「あなたは隙(すき)だらけのまま打ってくる」と言われたそうです。私とT剣士が教わったことは、柔道の日下部さんの話とまったく軌を一にしているなあと思いながら、学年通信コラム部分を読ませてもらいました。この話を早く紹介したかったのですが、学園祭準備の紹介などが多くて、今になってしまいました。

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2016年9月15日 (木)

再録記事:エンジェルトランペット、学園祭準備

平成17年(2005)9月22日木曜 の再録記事(1)です。

学園祭の準備にいそしんでいる日ですが、通学階段のエンジェルトランペット、そしてベランダからの新横浜方面眺望が懐かしく思い出されます。

   ↓

050922enjel_trunpet ■学校の模様から紹介します。正門を入って、体育館脇を通り長い階段を上り詰めると事務室のところに、いま大きな白い花が咲いています。用務員さん(鶴見さん)の力作です。

エンジェルトランペットというそうです。朝鮮朝顔の一種だという方もいます。

050922enjel_trumpet_kakudai 首を上に向けないと目に入らないと思いますので、階段を上り詰めて昇降口にたどり着く前に気をつけてご覧になってください。釣鐘のように下向きに咲く花なのですね。

実は私は、昨年、B高校の先生のお宅の庭で、この花を生まれて初めて知りました。すると、それから縁が深くなったのかどうか、しょっちゅう見るようになりました。昨夏、帰省した折り、実家の畑に近所の方が植えてくれ、そして今年、用務員さんが学校に鉢植えしてくださったわけですが、どちらも別に私のためということではありません(当たり前ですが)。それだけにB高校の先生宅の庭からあと、この花にえにしを感じるわけです。

■連日、学園祭準備の模様をお知らせしておりますが、きょうは、生徒の力を思い知った日でした。水泳部のテント張り(フランクフルト屋さん)を手伝ったのですが、私のほうが<年の功>で絶対にうまく050922tent_setuei1 050922tent_setuei_bubun_kakudai やれる自信満々でいたところ(いや実際、今まではきちんとこなしていたのです・・・?)、なかなかすぐに骨組みをうまく組めません。すると、MさんやHさんたち部員のみんなが「ここはこうですよ」「それはこうしてみたら?」と知恵を出してくれたり、「これをやってからでないとうまくいくはずがないです」というように指示してくれたりするのです。そのとおりやると実際うまくいきました。脱帽でした。

■そしてまたまた、びっくり。050922basket_tent 横を見るとバスケットボール部のテント(焼き鳥屋さん)がきれいに張り終わっています。自分たちだけで組み立てたのだそうです。みんな立派!立派!

生徒諸君の頑張りに報いるためにも、学園祭、台風もそれて、雨一滴降らないでほしいですね。

■テントの写真をとっていたら、美術室の前で手を振っている人がいます。2年生たちです。近づいていってもう一枚写真をとりました。050922bijutusitu_mae 050922bijutusitu_mae_tikaku そうしたら階段のほうから声がきこえてきてもう050922bijutusitu_hitori_hueta 一人加わりました。それでもう一枚パチリと相成りました。

■この写真は、陽も落ちて暗くなったなか、校内装飾050922syokuinsitumae_oudanmaku係が横断幕を張っているところです。教頭先生も手伝っています。この横断幕には書家教頭先生の手で「神無祭 めざせ大倉山」と書かれてあります。<めざせ!大倉山の栄光><栄光をめざせ!大倉山のみんな>の両方の願いを込めた、(若かりしころの)教頭先生によるコピーです。学園祭にこの横断幕をかかげるようになってからもう20年以上になります。これも大倉山50年の生き証人ですね。神無祭という名称から、以前は10月に本校学園祭が実施されていたことをしのんでもらえるでしょうか。いま生徒教職員総がかりによる学園祭に向けた一日一日の取り組みが、東横学園の歴史に、確かな大倉山の50年を刻む作業なのだと思います。みんな頑張れ、大倉山のみんな、栄光をめざせ!

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2016年9月13日 (火)

本校初の「火文字」 &昭和50年集合写真(ありし日の母校より再掲)

本校伝統の学園祭「火文字」が始まったのは、今から33年前のことです。

きょうは「火文字」の歴史を簡単に振り返ってみます。

「火文字」第一号は、昭和50年(1975年)のことでした

当時の学園祭顧問は玉應(玉応)宏先生

080505_1975sotu_al_hajimete_no_himo080505_1975sotu_al_hajimete_no_hi_2 後年、玉応先生が常々言っておられたことは「火で文字を作る」というアイデアを出した当初は、「字になるわけがないと一蹴されたけど、やって良かったよ。こんなに伝統的に続くようになったものね」ということでした。

 実行委員の生徒と工夫をこらした成果です。第一回火文字は上の写真のように見事な出来栄えです。「東横」の文字がくっきりと浮かび上がっていますね。それからしばらくの間は、この「東横」を文字にしていました。

  • 二代目火文字担当教諭は進藤先生、そして私(重永)が受け継ぎ、最終ランナーは樋口先生。この間、私の代から最後までずっと装飾門担当の森先生がサポートしてくださいました。
  • 担当の生徒たちは、普通は「男手」と思われる仕事ながら、リーダーを中心にしっかり取り組みました。火文字をぶらさげる櫓(やぐら)作りのときには、お兄さんが現場監督だという生徒(濱口さん)が、兄を見習って櫓作りを自分で行うと言ってきたこともあります。
  • どの年度もみんな、学園祭を締めくくる役割だと意気に燃えて取り組んだだけに、フィナーレが成功のうちに終わったときは、満足感達成感で充実していました。

0805_himoji_naiyagara_first 2002_gakuensai_naiyagara   さて、話をもどします。進藤先生の代に、「東横」の文字から学園祭テーマを火文字にすることに変え、私が受け継いでから、1987年(昭和62年)、ナイヤガラ花火を加えるようになりました。

0805_1989himoji_utiagehanabi0805_1988himoji_utiage_hanabiその翌年、打ち上げ花火も始めました。

そして、火文字点火の方法も空中から火をはなってつける「飛炎点火」へと発展させました。この点火方法は準備が大変なことと火が空中にとどまることがあるのが難点でしたが、樋口先生が改良してから後は失敗もなくなりました。

 また、太鼓部演奏を皮ぎりにフィナーレを始めるというように、「火文字」は感動的な学園祭フィナーレを演出するものとして本校生の誇りとなっていきました。

080505_1975sotu_al_syuugosyasin←では、今日の最後は、火文字を始めた年の卒業アルバム(1976年3月)より、校庭での集合写真を掲載して終わりにします。

 坂東校長先生が右上に、山名教頭先生(後に校長)が左下に写っておいでです。ほかには古川知子先生、安西先生(?)、池内先生(?)、高橋先生(?)、技術管理員の市川徳次さんが写っています。?をつけた先生は私の赴任前に退職された先生ですので、推測ですが、たぶん間違いないと思います。

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2016年9月10日 (土)

羽釜で調理実習(ありし日の写真より)

camera羽釜(はがま)で調理実習movieありし日の写真vol.8

080513hagama 080513toukohuukei←左側の写真、年配の方々には懐かしいと思います。

  • 右側の写真は木造校舎からおりる下校風景。牧歌的風景ですね。

左側の写真にもどりますが、調理実習で羽釜(はがま)でご飯を炊いていますね。

竈(かまど)を使って火でご飯を炊いていた時代は、お釜が竈(かまど)の中に落ちないように、羽がついていました。それで羽釜。・・・私は刃がついているので≪刃釜≫と思っていましたが、間違いでした。

上の写真は1962年の卒業アルバムからです。46年前になりますが、電気炊飯器は発明されていても高嶺の花だった時代です。一般に普及するのは、5-6年後でしょう。私の家はまだまだ遅かったですね。

 小学生のころ、私も羽釜でご飯を炊いたことがあります。それで思い出すのが、「味噌汁に入れる野菜はしっかり洗わなければ駄目だよ」と母に言われ、「よし!」とばかりに、ライポンFで洗ったことがあります。ライポンFと言っても若い人にはわからないでしょうが、洗剤。

 無知とはいえ、とんでもない小学生ですね。別にいたずらでもなんでもなく、大真面目に「洗剤で洗えば野菜がとても綺麗になる」と信じ込んでのことですが、洗ったあと、ライポンFが十分に落ちなかったために、できあがった味噌汁は洗剤くさくて食べられたものではありませんでした。事情を知った母に怒られたのはいうまでもありません。

 きょうは、そういうことを思い出させてくれる「ありし日の母校」写真でした。

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2016年9月 7日 (水)

再掲記事:1978-1979年体育祭の教師仮装(ありし日の母校より)

080430_1980taiikusai_sensei_kasou← 1979年体育祭。先生たちのお名前は左側から順に、宮沢先生、土屋先生(上段)、相馬先生(下段)、大畠先生、北島先生、私(重永)、坂本先生、井上先生、藤本先生、古川知子先生(上段)、山口勤先生(下段)。ちなみに私は≪ぐぁしゃ!≫の「まことちゃん」(漫画、今の方は知らないかもしれませんね)の格好をさせられています。

78taiikusai_kyoinkasou

← ついでですから、その前年、1978年の仮装写真も掲載しておきましょう。これも左側から順に、藤本先生、大畠先生、古川知子先生(上段)、森先生(下段)、坂本先生(上段)、玉応先生(下段)、山口勤先生(上段)、進藤先生(下段)、私(重永;上段)、井上先生(上段)、佐野先生(下段)。私は何の役をさせられたのか、忘れました。

 ちなみに当時、私は20代前半でした。昨年の大倉山の若い先生のどなたよりも若かったのですね。若かったというより、今振り返ると幼かったなぁと反省させられる日々でした。

※数日前からカテゴリー「ありし日の母校」の記事を再掲しております。

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2016年9月 5日 (月)

再掲:新校舎設計図 昭和42年の卒業アルバムより

カテゴリー「ありし日の母校」より再掲します。

telephoneありし日の母校 vol.6moon1

・・・昭和42年(1967年)の卒業アルバムより・・・

080503_1967sotual_adachisensei 当時のB組の集合写真です。 ※写真はクリック拡大願います。

正井校長先生と担任の足立先生が中央に座っておられます。

080503_1967sotual_sinkousyasekkeizu←これは、その卒業アルバムに掲載されている校舎設計図。

大倉山幼稚園の園舎のところ(後の西側校舎のところ)に鉄筋コンクリートの校舎を建てる建築予想図です。

   ※大倉山幼稚園はのちに野川幼稚園に、そしていまは二子幼稚園に統合されています。

  •  この予想図をみると、「こんな建物はないよね?」と思われるでしょうが、無理もありません。

     この建物の前は、山桜、椎の木、泰山木など、大きな木立で埋められています。

     つまりこのように正面から全体像を見ることはできないからです。
  •  でも、このように建っているのですよ。

     両サイドを区切っている真ん中は階段部分。一番上が生徒会室です。

     左サイドの三階はホール(平成15年ごろまでは被服室)と茶道和室です。

     その下は調理室と会議室、放送室。

     一階が保健室と用務員室。
  •  では右側はわかりますね。

     一階が職員室、事務室、校長室。

     二階が理科室。

     三階が普通教室。

     一番左は平成15年から家庭科室として使いました。

 実際に建つのは、このときの卒業生が巣立ってから数年後のことでしたが、当時の生徒の皆さんにとっては嬉しいことだったと思います。

 短い記事ですが、きょうはこれくらいで。

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2016年9月 3日 (土)

再掲「大倉山よりのぞむ開通したての新幹線」(「ありし日の母校」より

cameraありし日の母校vol.5 開通したばかりの新幹線24hours

080501_1967sinkansen昭和42年(1967)3月の卒業アルバムから。

ちょっとぼやけた写真ですが、クリック拡大していただくと新幹線が走るのがよくわかります。本校から眺めた写真です。撮影されたのは昭和41年。

080501_1967sinkansen2 新幹線は昭和39年(1964)に開通していますので、 上の写真は開通二年目ということになります。私が本校に赴任したときも新横浜駅の前は開発途上でしたが、新幹線が開通したころは、新横浜駅の周りはまったく何もなかったそうです。

 また、二枚目の写真をみると、今のセブンイレブンの横が池だったことがわかります。クリック拡大してよくご覧ください。

 昭和40年代の卒業生にとって懐かしい風景というのみならず、新幹線の初期の写真としても貴重なものかもしれません。

 私が新幹線に初めて乗ったのは、昭和47年か48年。大学一年のときでした。上の写真からすれば5-6年後のことです。新幹線に乗れたこと自体、大感激でしたが、車窓から眺める富士山が在来線から見るのと違うように感じられたものでした。違うわけはないのですが、心というものの不思議さです。

 本校に就職してからのことですが、「本校から新幹線が見えるのならば、新幹線の中からも本校が見えるかもしれない」と考えながら新幹線に乗ったことがあります。そうしましたら、本当によく見えました。わが校舎に感激したことを覚えています。←このことは、ある時期、授業でしきりに話しましたので(脱線話ですね)、覚えている卒業生もいるでしょう。

             以上

※記事をあたらしく書く余裕がありませんので、再掲記事をのせていくことにしました。ご了承願います。

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2016年9月 2日 (金)

再掲「ありし日の母校」から・・ 1960年代運動会のようす

sunありし日の母校 vol.4eye

080430_1968sotual_snap

←1968年の卒業アルバムから。

運動会(本校校庭で実施していました)における仮装行列の様子や沼津(三島かも)での臨海学校、修学旅行などのスナップ写真です。

  • 当時の高等学校の運動会では、全国的に仮装行列が行われていたようです。
  • 本校では70年代に入って生徒の仮装行列ではなく、先生方を仮装させるように変化していきました。
  • 080430_1980taiikusai_sensei_kasou
  • ←これが、その先生方の仮装写真です。1980年の体育祭におけるもの。

080430_1967dscf3690←最後に掲げるのは、1967年の卒業アルバムに寄せた先生方の「寄せ書き」です。

正井兵次郎校長先生の「高い風格」という文字が際立っています。本校「建学の精神」の二番目は「気品あふれる女性」。それをうたった正井校長先生の筆書きです。

     以上

※記事をあたらしく書く余裕がありませんので、再掲記事をスタートして、大倉山高校をしのぶ縁をつなぎたいと思います。

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