2010年9月 8日 (水)

(その2)寄る年波からくる先生方の顔の変化≪ありし日の母校番外編≫

  • 台風9号の接近で大雨となりましたが、猛暑の今年は「慈雨」(じう)のおもむきがありますね。でも台風の進路が北陸地方から関東へと変わってきているようです。お気を付けください。
  • 以下、昨日の記事の続きです。

(7-8年前のこと、古い卒業アルバムを見ている新任の先生方から)

「ええー、これが重永先生なの」とか「いや、ちがうよ」とかいう声が大きな笑い声とともに聞こえてきました。

(なに、おれの写真をみているのか?)と思って、それじゃあ聞き捨てならんなとばかり、輪の中に入っていきました。

そうしましたら、まさしく私の若き頃。赴任してまだ2,3年目の写真です。20代半ばの頃。

「ああ、それは間違いなく私ですよ」というと、

一同(文字通り一同です(笑))

 「えー、ありえない」
 「わー、髪があるじゃないですか」
 「若いころと今とがこんなに違う人って、そんなにはいないと思う」

などと好き勝手放題、散々なことをいいます。当の私を目の前にしてですよ(笑)

 「まったく別人ですね」
 「若いころの面影が残ってない」

先生たちがもう生徒みたいにはしゃいで私のことをあれこれ言っています。

もうしょうがない、ここで私の新旧写真を載せておきましょう。30年の開きがあります。

100907kiji22kialbum←最初の卒業生を送り出したときのアルバムから。

100907kiji2010nen←現勤務地の付属小学校ホームページから。

  • ほかの先生方の新旧写真も載せたいところですが、やはり個人情報になりますので見合わせます。

話をもとにもどしますが、「髪がまだある」というのはお愛嬌だとしても、「ありえない」「別人」「面影が残ってない」というのは、人には言われたくないなあという思いではありました。しかし、どんな言われ方をしようとも鼻白む思いにはなりませんでした。

それというのも、40代になってから自分でも顔が変化してきたなあという思いを強くしていたからです。

髪の毛が薄くなったのは教務部長になってからで特に急激な進化(笑)は教頭になってからのわずか一年のうちにでしたが、顔はそのかなり以前から変化してきていることに気が付いておりました。

単純に顔に肉がついたからというのではなく形に変化があるように思っていました。

それで、先生たちから「別人」「ありえない」などとおぞましい表現が出ても、さほどショックではありませんでした。

「人は40歳=不惑の年を超えたら顔に責任を持て。40歳までは親にもらった顔、40歳からの顔には自分の年輪が刻まれている」という言葉がありますし、40歳を超えてから顔に変化があらわれるのは、それだけの生き方をしてきた証拠だと自分に言い聞かせていたからでもあります。

悪相(あくそう)に変化したのか好々爺(こうこうや)の方向へ変化したのかは人の評価にまかせるしかありません。

以上、卒業アルバムによって、先生方の顔が変化していることについて生徒や先生方が評定(ひょうじょう)することがあったということを、私を題材に書いてみました。

皆さんも教わった先生方のことを思い出して見てください。

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2010年9月 7日 (火)

先生方の若い頃と年を重ねてからの顔の変化(1)

今日も先生方に関する思い出の番外編です。

生徒たちは学校の古い卒業アルバムを見たがったものです。

皆さんにも「先生の若いころの写真が見たい」とおねだりした覚えがあることと思います。

機嫌が悪いとき(笑)やふだんはあまり見せませんが、卒業シーズンになったりして以前の卒業アルバムを参考にする必要があるときは否応なく見せることになります。

誰かが見せてもらったというと、それからしばらくは「見せてほしい」という生徒が続きます。

生徒のみならず新任の先生方が卒業アルバム編集の参考に古いアルバムをみて、年配の先生の若いころの写真をさがすというのも、代々つづいた≪先生間の風習≫の一つです。

私の席が講師先生のテーブルに一番近かったときのことです。

新しい先生方(中途採用の先生もいらっしゃいますので、全員が若いというわけではありませんが・・・こんな書き方をしても他意はありません・笑)が講師先生のテーブルに集まって卒業アルバムをみていたときのことです。

卒業アルバムはだいたい放課後、講師先生が退勤されてどなたもいらっしゃらないテーブルの上にひろげて見るのが通例でした。アルバム保管庫が近くにあるのと、広々としたテーブルに広げてみんなで一緒にみることができるからです。

7-8年前のことだと思います。そのテーブルから、

「え、これは誰?」
「~~先生じゃない?」
「まさか。もう辞められた先生じゃない」

などという会話が聞こえてきました。

私はちょっと仕事がたまっていましたので、いつもの光景だなあと思いながら聞き流していたのですが、そのうち、(・・・時間の関係であとは明日に続きます。お楽しみに)

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2010年8月26日 (木)

昼下がりの交差点で@修学旅行先生物語≪ありし日の母校番外編≫

denim交差点にたたずむZ先生run

修学旅行で生徒たちが最も楽しみにしているのは、自由行動(自主行動)です。

北海道修学旅行時代は、札幌や函館あるいは小樽などで終日または半日の自由行動の時間をとっておりました。

いうまでもないことですが、自由行動の時間といっても、事前学習に基づいて班ごとにポイント巡回計画を定め、その計画書を担任に提出して許可をもらった上での行動ですから、足の向くまま気の向くまま、成り行き任せというわけではありませんよね。

先生たちは、提出された巡回計画をまとめて、生徒たちが訪れるポイントを隈なくとまではいかなくても、要所要所を回り歩きます。ですから、自由行動は先生たちは暇なんだろうなというのは大間違いです。

とはいっても、生徒たちと同じように自由行動の時間は、生徒を四六時中、見ているわけではないので、少しは開放感に包まれる時間帯です。

ですから、先生によってはおもしろいエピソードも生まれやすい時間だといえます。

今日は、そんな話題です。

終日自由行動では昼食も各班ごとに自由にとり、先生たちも思い思いに昼食をとるわけですが、先生たちはだいたい落ち合って同じ店でとることが多いわけです。

あれは確か札幌だったと思います。もう25年ほども前の修学旅行のときです。昼時になり先生たちが落ち合って、さあどの店に行こうかと市内をぶらぶら歩きながら、大通り公園の方に行ってみようかとなって、交差点を渡り角を曲ったのです。

交差点を渡っていくばくもしないうち、Z先生が欠けていることに一同気がつきました。曲がらないで直進したかなと推測していたら、

S先生が、

「いたいた。まだ交差点を渡っていないよ。」

と向こう側を指さします。

確かにわれわれが渡った交差点の向こうにそのままたたずむZ先生の姿が見えます。それもあさっての方角を見たまま。その視線の先に我々も目をやっていたところへ、

S先生が

「おーい、S先生、何してんだよ?」

と呼びかけると、Z先生、驚いたように振り向いて

「あれ、何で置いていくのよお?」

と言いながら赤信号を渡ろうとするので、一同、

「あぶない、あぶないよ」

まあ、ことなく、青信号になって「わりぃわりぃ」といいながらこちらにわたってきたZ先生に、S先生をはじめわれわれが、当然ながらにやにやしながら、

「先生、どこを見ていたんだ?」

といいますと、

「いや、別に何も・・・」

と答えますので、S先生が

「あの大きな看板を見ていたろう?」

とからかいます。

からかうのも当然で、その看板はコカコーラボトラーズの大看板で、暑い日差しを受けて水着姿の女性がコカコーラを持つCM看板だったのです。

Z先生「いやいや、あの、横浜や東京にはない看板だからさ、珍しかっただけだよ。」

S先生「あれは横浜にもあるよ」

Z先生「オレの住んでいる東京にはないんだよ」

Z先生の答え方に一同大笑いになりました。横浜にあって東京にないってのは・・・。

Z先生の人のよさと愛嬌があらわれたヒトこまでしたが、われわれはほとんどが30歳前後のころ、今風にいえば「アラサ―(around 30th)」の時代。

水着姿が街中(まちなか)の大看板に堂々と写されるようになった昭和が暮れる時代のことでした。

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2010年8月 3日 (火)

続き@今だから話せること≪ありし日の母校番外編≫

7月30日の続きです。

rain忘れたものは・・・、その理由は・・・dash

 坂道をくだるバスのなかで、少しひんやりと冷気を感じた私は、上着を羽おろうと思ったのですが、その刹那(せつな)、「しまった!」と、背中がぞっとする思いに襲われました。

上着をホテルの部屋に忘れたことを思い出したのです。

 今でもありありと思い出しますが、部屋の片づけを終えて、ボストンバッグにすべて詰めて、クローゼットにかけた上着から財布を出して、中身をしっかりと確認し、もう一度上着に財布を戻して、これで出発オーケーだと思ったことも覚えています。

 上着をクローゼットから出してバッグといっしょにしたほうが良いかな、いや、上着だから忘れるはずがない、クローゼットにかけておいていいやなどと思いめぐらしたあげくに、クローゼットにかけておくことを選んだことすら、今でも覚えています。

 それほど念を入れたのに、なぜ、私は上着を忘れてしまったのでしょう。

 その理由ははっきりあるのです。恥の上塗りで書いてしまいますが、いや尾籠な(びろうな)話になるので申し訳ないか・・・ちょっと勘弁してもらって書きますと、私は旅に出るとどうも、お通じが不規則になってしまうのです。そのときも出発間際にトイレにかけこむことになって、大慌て状態で、部屋を出る羽目になりました。

 それで、バッグだけを手に持って部屋を出て、生徒に「忘れ物はないか」と念押し確認をしたというわけです。いやー恥ずかしい。本当に恥ずかしい。

 上着を忘れたことに気がついた私の一瞬のたじろぎを東急観光添乗員のSさんは見てとりました。

 「先生、どうしました?」

 「いや、なんでも・・・」

 「何か忘れたのではないですか?」

 図星でした。しかし、生徒に忘れ物はホテルへの大迷惑と言っている手前、うなづくわけにもいきません。いや、なんでもないと首を横に振りましたが、Sさんはベテランの添乗員ですので、見抜いているわけです。

 「今ならホテルを出たばかりですから、時間のロスはありません。私がひとっ走りして取ってきますよ。」

 「いや、いいですよ」(←この返事で認めてしまってますね。ああ恥ずかしい。)

 「運転手さん、近くのお店に停めてください。」

 と言って、前後のバスにも無線連絡し、私の忘れものと場所を確認したうえで、停車したお店に交渉して、なんとバイクを借りてホテルまで向かってくれたのでした。この間、私に配慮して、生徒たちにさとられないように密やかに、それでいて実にてきぱきとした行動でした。

 帰ってきたSさんの手には紙袋があり、そっと、私の足元に置いて、バス団の再出発です。この間、ものの数分。生徒たちは何事だったかもわからない感じだったと思います。(気がついた人もいたかな?どうでしょう?)誰も私を責める声も視線も感じませんでした。

 今だから話せる失敗ですが、ここで初めて生徒の皆さんに謝ることにいたします。あのときは、ごめんなさい。

 生徒に分からないように紙袋から上着を出して中を確認して、ほっとしたのですが、その日の観光地、アイヌコタンでは、土産物を買うのに大枚をはたくことを惜しみませんでした。アイヌの服1着12,000円するのを買い求め、いまも大事に着ております。

 ↓ 阿寒湖アイヌコタンのホームページです。

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2010年7月30日 (金)

今だから話せること≪ありし日の母校番外編≫

door生徒に注意しながら、教師の自分は・・・search

 これは私の失敗談です。当時は生徒の皆さんには話せない、今だから話せる失敗談です。

 北海道修学旅行のとき。昭和も終わるころの修学旅行でした。

 当時の旅行は、石川さゆりさんの名曲さながらに、「♪上野発の夜行列車♪」に乗って北海道に向かいました。東北地方の朝ぼらけの風景を車窓にながめながら、朝を迎えたのをよく覚えています。

 このときの旅行は、本校修学旅行団が青函連絡船に乗った最後か最後から二番目ぐらいの学年だったと思います。(青函連絡船は昭和63年廃止)。

 ちなみに、昭和の終わりごろは函館から貸し切りバスで北海道一周をしていましたが、昭和50年代の半ばぐらいまでは、青函連絡船を降りたあとも函館から鉄道で札幌まで向っていました。今思えば、時代をさかのぼるほど旅情たっぷりだったように思います。

 しかし、新しい時代は新しい時代なりに、飛行機やバスによる移動の便利さの恩恵をたっぷりうけて、より多くの名所旧跡、大自然をめぐり歩くことができましたので、どちらが良いとかいうわけではありませんが。

 さて、話題を私の失敗へもどします。

 修学旅行で最も大事なことの一つに、「朝、ホテルを発つときに忘れ物をしない」ということがあります。大旅行団ですので、みんなが忘れ物をしたら、回送などの迷惑をホテルの方におかけすることになります。

 ホテルの方々は、修学旅行に対しては「学生さんの大事な思い出」づくりのために、通常の旅客以上に細かな注意を払ってくださいます。そういうご配慮を受けているのですから、忘れ物をして「報いる」などあってはならないことなのです。

 ですから、朝食時に行う連絡では、必ず、忘れ物をしないように、部屋をくまなく片付けてきれいにしてから、出発時間にロビーに集合するよう注意しますし、バスに乗った直後も「もう一度いうが、忘れ物はしてないだろうね」と念押しの確認をします。

 さあ、「そのとき」がきました。

 2号車のバスを預かる私が、生徒たちに「念押し」をして、生徒たちの「ありませーん」という返事を確認し、無線で(当時は携帯がないのでバス無線で)、1号車の学年主任(Z先生)に連絡をし、いよいよ旅行団がその日の行程へ動き出したのです。

 場所は層雲峡(そううんきょう←クリック)。

 北海道の「へそ」(真ん中)よりちょっと北寄りにあり、流星銀河の滝などの名勝がたくさんある峡谷です。ですから、朝がとても気持ちが良い。

 そのすがすがしさの中で、あとにしたホテルは層雲峡朝陽ホテルか層雲峡グランドホテルかだったと思います。

 ホテルをあとにして、坂道を下るバスのその日の目的地は、阿寒湖でした。

 阿寒湖といえば、「まりもの歌」(←クリック:いわせひろし作詞、八洲秀章作曲)がなつかしい。

 ♪・・・・・・・マリモよマリモ 涙のマリモ♪のフレーズで終わる歌です。

 そのメロディからすると、阿寒湖の遊覧船の中で聞くと切ないはずなのですが、大音量のせいか、ちょっとなあと思ったものでした。

 でも、バスの中でガイドさんが歌ってくださったのは、しみじみと胸にしみたものです。

 上にYouTubeからリンクをはりましたので、お聞きになってください。

 「おいおい、そのときが来たと書きながら、いつのまにか、まりもの話へと、話題をそらしているんじゃないの?」という声が聞こえてきます。

 そう、できるだけ私の失敗は後へあとへとずらしたい・・・そういうことで、来週の月曜日の記事までお待ちください(笑)。ごめんなさい。

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2010年7月28日 (水)

α先生の思い出byβ先生提供の話題≪ありし日の母校番外編≫

shadowシャンプーとリンスrun

北海道修学旅行時代のことです。

昭和50年代のことですから、もうずいぶん前のことになります。

修学旅行ですから先生たちには仕事なのですが、仕事抜きに似た話になりますことをご了解ください。

修学旅行での楽しみの一つに、温泉につかるということがあります。

さて、α先生が頭をごしごしやっています。でも、ちっとも頭に泡がたっていません。

リンスをつけているんだなと思ったβ先生が、「そんなに入念にリンスを髪の毛にぬりこむ必要はないんじゃないの」と声をかけたのです。

α先生「いや、リンスじゃないよ。頭を洗っているんだよ」

β先生「ちっとも、泡が出ていないよ。」

α先生「そうなんだよ、なんか、温泉の成分の影響だと思うんだ。シャンプーをもっとかければ泡が出ると思って、かけてるんだけど、ちっとも出なくてまいっているんだよ」

β先生「そうか、温泉の成分か」

といいながら、β先生がシャンプーで頭を洗い始めると、いっぱい泡だつではありませんか。

β先生「俺、泡立つよ」

α先生「えー、おかしいな。シャンプーが違うのかな?」

β先生「どんなシャンプー使っているの?」

α先生「これだけどさ」

といって、β先生に渡します。α先生の手にあるそのシャンプーを見て、β先生の目が点になりました。

なんと、その「シャンプー」なるものは、β先生が持ってきたリンスだったのです。

β先生「何やってんだよ。それ、俺のリンスだよ、リンスで頭を洗っても泡立つわけないだろう」

α先生「えええーっ、本当?」

β先生「ほら、よく見ろよ」

とα先生に見せるために、α先生の手から自分の手にとったβ先生、そこで、二度びっくり。

リンスの容器がきわめて軽いのです。修学旅行用に新しく買ってきたばかりのリンスなので、たっぷり入っていたのにです。

β先生「おいおい、俺のリンスをこんなに減るまで、頭にかけたのかよ?」

α先生「いや、泡立たないからさ。じゃばじゃばかけたんだよ。」

β先生「いや、まいったな。」

α先生「いやー、わりーわりー」

どうでしょうか。落語のような、漫才のような。

こんな話がたくさんあります。続きはまた。

※明日は終日出張につき、校長日記、お休みいただきます。

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2010年7月23日 (金)

修学旅行というものについて≪ありし日の母校番外編≫

 先生方の修学旅行などでの思い出話に移る前に、修学旅行というものについて触れておきたいと思います。そのうえで、後日、先生がたの話に進みたいと思います。

 先生方のことを書く、書くといいながら、いつまでも、気を持たせて申し訳ないことですが、

penguin修学旅行についてnoodle

修学旅行は、企画・実施・振り返り反省の全体を通すことで、単なる物見遊山(ものみゆさん)の旅行を、

  1. 自然・地理や歴史・文化に関する知識の定着、
  2. 異なる地域や世界に対する理解と共感、
  3. 仲間との集団行動の規律と喜び、
  4. しばしの別れによる家族への思いやり

 などなど、多くのことを実体験として学ぶことができる優れた教育行事です。
 特に明治以後の近代日本の学校教育において導入され発達したものです。

 戦後教育界において、この修学旅行を近代日本の徴兵制度実施に結びつけて、徴兵されたときの軍事遠征の予備訓練として発達した日本独特のもので、進んだ欧米にはない教育方法であるというような言い方をする人もいましたが、私は、それは間違いだと思っております。

 私が修学旅行の引率責任者として「旅行のしおり」巻頭に書いた文章には必ず、次の文章を入れました。平成10年ごろからのものだと思いますが、そのころの「しおり」を今も思い出として保管している人はひもといてみてほしいと思います。

修学旅行は我が国で考案されました。

欧米にはみられない世界的に貴重な教育方法です。

最初は、明治19(1886)年東京高等師範学校(現筑波大)が「長途遠足」と称して房総半島に11日間旅行したもので実施理由は「学問は実地実物についてその観念を開発すべし」ということでした。

それから116年、修学旅行はさまざまなスタイルに発展して今日に至っております。

学習目的も単に名所旧跡の実地見聞にとどまらず、自主性の修得、ホテルや観光地におけるマナー・エチケットの修得、団体行動の心得を身につけるなど多岐にわたるようになりました。

現代において修学旅行は良識ある社会人になる一歩という位置付けです。

  • (注)Web辞書ウィキペディアによれば、上述の東京高等師範学校以前に、1882年(明治15年)に栃木県第一中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)が東京・上野における「第二回勧業博覧会」を集団見学したのが始まりと書いてあります。

school大倉山高校修学旅行の宿泊ホテルについてcrown

 大倉山高校の修学旅行は、修学旅行ホテル選定においても、その土地その土地の一流ホテルや旅館に泊まるようにしておりました。ある年の生徒の言葉ですが、

 「修学旅行に来て、やっと私立学校らしい建物に泊まれたよね」

と言った人がいます。

 どういうことかというと(卒業生の皆さんには解説するまでもないことですが)、

 大倉山高校は規模の小さい高等学校で学費も比較的低廉であったため、財政力に大きな限界を抱えており、確かに建物や施設・設備ではほかの私立学校に比して十分でないところがありました(こういうのを、スケールデメリット=規模の不利益といいます)。

 ところが、修学旅行では、普段の家族旅行でも宿泊しないようなきわめて立派な、その地域における一流ないし老舗のホテルに泊まることを旨にしていましたから(それは見栄とかではなく確かな教育的意義を考えてのことだったのですよ)、生徒たちは、それを「私立学校らしい建物」と表現したのですね。

 ある年、九州の雲仙(うんぜん)に泊まった折りは、日本最初のリゾートホテルである雲仙観光ホテル(←クリック)を利用いたしました。このホテルは、当時の姿そのままに今も使われている由緒深いホテルですが、最初のリゾートホテルだけあって、主な宿泊客は滞日外国人が多かったと言われます。

 そのため、仕様が外国人向けで、たとえばドアノブの位置が欧米人の背に合わせて高い位置にあったり、笑い話では、足の長さに合わせて男子小便器が大変高くて、われわれ日本人男子教員はあわてたりしたものです。

 話の本筋がずれましたが、実は、この雲仙観光ホテルは実は昭和天皇皇后両陛下もお泊りになったところなのです。上記ホテル名にリンクをはりましたので、ご覧になるとおわかりになると思いますが、実に立派なホテルです。生徒たちはホテルに入る時から出るまで、がちがちに緊張しておりました。

 でも、良い思い出になったと思います。

 このように、宿泊ホテルひとつをとっても、世の中に出るにあたっての貴重な勉強の機会が大倉山高校の修学旅行です。

 そういう教育的意義に包まれた修学旅行ではありますが、やっぱり、旅行ですから、物見遊山的なわくわくした気持ちも旅行団全体にかもしだされます。それは、生徒だけではなく引率の先生方にしたところで同じなのです。それで、普段は見せない失敗をしたり、あるいは≪先生の素顔≫というようなものが現れたりするのでしょうね。

 次回からは、いよいよ、修学旅行における先生の話にうつっていきたいと思います。

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2010年7月20日 (火)

コメントをいただきました~先生方の失敗談について~:【ありし日の母校】番外篇その2

7月2日の記事(←クリック)に卒業生よりコメントをいただきました。自己紹介に「35期、N.Sanae」さんとあります。すぐお分かりになる方も多いでしょう。もちろん私もどなたか分かっておりますが、ここでは、そのままにしておきたいと思います。

私の失敗談について記した記事ですが、それに関連して、先生方の失敗談を思い出されたことにふれてあります。

当日記事のコメントでも読めますが、ここに転記してご紹介しておきます。

お久しぶりです。

35期生、N.Sanaeです。
読んでて、吹き出してしまいました。

先生達の数々の(?)失敗談は、学生の頃から聞いてました。特に、面白かったのが、随分昔、北海道へ修学旅行に行ったときの話を字の上手なS先生より聞いてました。( ´艸`)プププ 特にS.T先生( ̄ー ̄)ニヤリ

でも、そんな愛嬌のある先生ばかりだったから、親しみあって、先生と生徒の距離が近く、相談事はしやすかったですね。

大倉山の先生は、もちろん私達の先生ですが、時には親みたいな存在、時には友達のような存在(馴れ馴れしくすみません)、だったと私は思います。

楽しいお話ありがとうございました。

↑以上の文中にあるS先生、S.T先生とはどなたのことか、私には分かりますが(上記S先生から耳タコになるほど聞いてきましたから…S先生といえば私もSですが、私ではありませんよ)、人のことですから、イニシャルにとどめておきます。

本校の修学旅行は、昭和年代においては、北海道一周でした。その間、都合3年間の例外(九州一周)はありましたが、創立以来、30年にわたって北海道修学旅行だったわけです。平成元年より九州一周になり、平成13年より沖縄となりました。(ただし、平成13年は米国9・11テロ事件の余波で中止、翌14年に北海道と隠岐の島で実施)。

この修学旅行における先生方の失敗談をはじめ、学校の思い出話を、明日から連載してみたいと思います。ただし、私が知る限りのことになります。また、先生方の名誉のために匿名にいたしますことをご了解ください。・・・もっとも匿名にしなくても本校の先生方なら笑って許してくださるとは思うのですが、まあ、匿名で。

それでは、明日以降をお楽しみに。

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2010年7月 2日 (金)

私の大失敗@昨日のメールの卒業生に関連して<ありし日の母校番外編>

昨日(7月1日)の記事で、ある年の林間学校で私が大失敗をしたことがあり、それを記事にしますとお約束しましたが、さっそく本日、ご報告いたします。

学校教員をやっていて、一度も生徒の前で失敗したりヘマをしたりしなかったという人はいないと思いますが、私の場合、人よりも多いかもしれません。

学校教員の失敗やヘマが生徒の心身に重大な影響をおよぼしたり、教職員の組織的取り組みの足をひっぱったりするようなものであれば許されませんが、「ご愛嬌」レベルのものであれば、コミュニケーションの一つとして生徒が許してくれることも多くあります。

もちろん、そういうケースのものであっても、しょっちゅうヘマをしていると、それだけの教師とみられることになって「ご愛嬌」ですまされなくなりますが・・・何事もひどすぎると駄目ということですね。

さて、今回の私のケースがどちらかは読者の皆さまの判断にお任せすることにして、そのときの林間学校における私の失敗談を記していくことにいたします。

昭和の末から平成に入るごろからですが、本校の林間学校in白樺湖では「牧場体験」をするようになっておりました。一番最初は「長門牧場」、後年はもっぱら「鷹山牧場」を中心に体験活動を行ったのですが、その年は、ブルーベリー狩り、団扇(うちわ)づくり、勾玉(まがたま)づくり、豆腐づくりなどに分かれました。

私は豆腐作りの班に同行することとなり、生徒4名といっしょに気持ち躍らせて豆腐工場に向かったのです。

2007album_rinkangakko09 ←これが、そのときの模様です。卒業アルバム林間学校特集から持ってきました。黄色いエプロンが生徒と私。白いエプロンが指導してくださった地域のボランティアの方々。

豆腐作りの工程は、簡単に述べれば

  1. ゆであげた大豆をつぶして熱湯でさらにゆでる、
  2. それを袋に入れて絞り上げて、おからと豆乳に分ける、
  3. 豆乳にニガリを入れて固まり始めるのを待つ
  4. 固まり始めたところで、型枠に入れて完全に固まるのを待つ、
  5. 固まったら、型枠から取り出して水のなかにしばらくさらして完成。

どうってことのない工程ですね。ところが私は失敗、いや「大」失敗をしたのでした。

最初に言ってしまいますが、上記工程の4から5へ移るとき。

どういうことかというと、指導員の方が「型枠に入れたら、よく固まったかどうか確認してから、水の中まで運んでくださいね」という注意がありました。当然の注意ですね。「固まったかどうかは、型枠を持ちあげないで確認するのですよ」とも注意されました。これも当然の注意です。

さて、一人の生徒のものが固まり、水にさらす段階に進んだものですから、私は、どれ、これも固まったのではないかなと考えたのです。それで、型枠をつかんだ(と自分で思った)瞬間、なんと、型枠から豆乳がドバッと(文字通りドバッと)こぼれ出したのです。

私は何が何だかわからなくなって、頭はパニック。あとはどうなったかわかりません。

いっしょにいた生徒たちが、あとで、そのときの私の態度を再現してくれたところによれば、次のようなこと・・・

私「うわっ!! なんだなんだ、これは、いったい、なんなんだ、おいおい、おいおい」

生徒たち「えー、先生、何やってんの」

私「なんなんだ、おい、どうなってんだよ」

生徒たち「こぼしてんじゃない」

私「俺にはわからん、いったい、なんなんだ」

生徒たち「だから、先生がこぼしたんでしょ」

私「いやいや、いやいや」

生徒たち「だって、先生がつかんだんでしょ」

私「そうか」

あぁ恥ずかしいやりとりですね。今こうやって書いていても穴があったら入りたい心境です。自分でパニックになったのは覚えていますが、自分が発した言葉は覚えていないのです。それを、この生徒たち、Aさん、Kimiさん、Kiuさん、Tさんの4名には、後々まで、いろいろと言われ続けることになり、そうか、そういうように私は言っていたのかと人ごとのように覚えることになったのでした。

横にずらしてみるつもりが、型枠を持ちあげてしまったのですね。そして、中身は固まりきっていなかった。まことに面目ない失敗です。

ところが、これが実は単なる失敗ではなく「大」失敗だったのです。

その型枠の豆腐は、Kimiさんのものだったのです。私が作っているものだったらまだしも、人のものを、生徒のものを勝手に動かして台無しにしてしまったのです。面目ないではなく情けない失敗なのです。ああ穴に入りたい。

Kさんは、しょうがないなあといいつつ、さらりと(これも文字通り)許してくれました。教師の私にくらべて何と度量の広いことか、落ち着いていることか。

以上が私の失敗談ですが、あらためて、4名の皆さん、特にKimiさん、ごめんなさいでした。でも楽しい林間学校でした。

この林間学校の写真、後日、<ありし日の母校>として、卒業アルバムより掲載したいと思います。そのときに、何期生のものかがわかりますね。・・・あ、昨日のメールで分かっていますね・・・それなのに、今日の冒頭部分で、「ある年の林間学校」と思わせぶりに書いてしまい、これも私の間抜けなところです。

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