2013年5月11日 (土)

大倉山幼稚園の高野先生について
(卒園生の森(江上)洋子様よりメール)

5月9日(木)記事に再録記事「5月の横浜・大空襲と大倉山幼稚園」を載せました。それはニューヨーク在住の森洋子さん(旧姓江上さん)という方から次のメールをいただいたことが理由です。

大倉山高校に併設されていた大倉山幼稚園を卒園された方で、幼稚園の高野先生(本校の前身である大倉山学園創立者の高野平先生のお譲さま)のことを思い出されて、検索したところ、この校長日記に行きあたったということです。

インターネットですから当然のことではありますが、この校長日記が地球を回ってニューヨークまで届いていることに感激しましたが、森さんからのメール内容にも感動致しました。

どうぞお読みいただければと存じます。第二便もございますので後日、ご覧に入れます。

     ↓

校長 さま

初めまして、私NY在住の者ですが、
東横学園大倉山幼稚園の卒園生です。昭和32年生まれです。

35年生まれの妹と36年生まれの従兄弟も卒園生ですが、
もう一人の従兄弟は40年4月1日生まれで、その時はすでに大倉山幼稚園はなく、
泣く泣く別の幼稚園(白梅)に行きました。

高野先生の事をふと思い出して、検索した所、こちらのサイトに出会いました。

私も他の方と同じ様に原爆で被爆されたと思っておりましたが、
こちらでで高野先生がどうやってお怪我をされたか知る事ができました。

私は先生に傷跡(ケロイド)があったのをしっかり覚えております。
何故急に先生の事を思い出したかと申しますと、息子が通う高校に先日広島で
被爆された方が来られて講演をなさったからです。

その方には目に見える傷はございませんでしたが、想像を絶する体験をされたにも係わらず、とても穏やかで、講演を聴いていた生徒達もこの方にすっかり魅了されてしまっていました。

勿論通訳の方を通しての講演でしたが、お人柄と申しますか、そういう事は人間同士、わかり合えるものですね。こちらの男子高校生というともう大人の様な子供もいますが、そんな子供達が次から次にこの方と写真を撮っている姿をみると胸が熱くなりました。

「アメリカを憎んでいますか?」との質問に

「アメリカを憎んではいません。原爆を憎んでいます。」とおしゃっていました。

私の記憶している高野先生もとても落ち着いた、優しい方でした。
他の先生のお名前はすっかり忘れてしまいましたが、高野先生のお名前はしっかり覚えております。

制服もなく、確か黄色いカバンだけがお揃いで、先生が毎朝、綱を持ってお迎えに来て下さって、その綱で電車ごっこみたいにして皆で通っていました。(帰りは保護者の迎えでしたが)

卒園生はみなどこかおっとりとしていた子供が多かったと記憶しています。
小学校は殆どみな大綱へ行ったと思います。そう言えば運動会は高校生のお姉様方に手伝って頂いた様な記憶もあります。

なんだか懐かしくなって、メールしてしまいました。
急にメールを差し上げました失礼をお許しください。

末筆ながら、益々のご活躍とご健康をお祈り申し上げます。

森 洋子(旧姓 江上)

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2013年5月 9日 (木)

5月の横浜・大空襲と大倉山幼稚園
 【再録記事】

平成18年(2006)5月25日の記事を再録します。※再録にあたって若干追記しました。

再録の理由は、ニューヨーク在住の大倉山卒園生の方からメールをいただいたことがきっかけです。そのメールは後ほどご紹介します。お楽しみに。

       ↓ 以下再録です。     

■半世紀以上前の戦争で本土大空襲といえば、3月10日の東京大空襲が有名ですが、本校所在地の横浜は、5月に大空襲を受けています。

 記録によれば5月29日のことです。本年はちょっと異常気象でしたが、いつもなら<風薫る5月>です。それが、61年前の横浜は<爆風燃ゆる5月>になってしまったわけです。

<爆風燃ゆる5月>をふりかえって平和の意志を固めるためにも、いま桐蔭学園で、横浜大空襲展を開いておられるそうですが、そのほかでも・・・・

060525kanasin_yokohamadaikuusyu_tenran ←今日の朝日新聞によれば、「かながわ県民センター」(神奈川区)で、明日5月26日より、横浜大空襲を中心に<2006平和のための戦争展inよこはま>が開かれるそうです。

この横浜大空襲のことは、実は本校の歴史にも、しっかりと刻んでおかなければならないことです。というのも本校の前身、大倉山女学校の創立者である高野平先生のお嬢様(当時二十五歳)がこの大空襲の直接の被災者であるからです。

060525kirokuyokohamadaikuusyu ←横浜市が昭和51年(1976年)3月31日付けで編んだ「横浜の空襲と戦災」という書物が1~6巻、発刊されています。

その第1巻が<体験記>となっており、その252ページに高野平先生のお嬢様の被災体験記述があります。

少し引用しますので、お読み願います。個人的体験だけでなく大倉山地域(横浜市港北区太尾町=大倉山一丁目)の貴重な戦災記録ともなっております。

↓ (高野平先生お譲さまの手記) 「・・・」は中略

060525kirokuyokohamadaikuusyu_takano 横浜のいまわしい大空襲、五月二十九日朝六時起床、晴れた日だった。

・・・午前十時三十分ごろ、

・・・西のかたに異様な響きが聞こえてきたかと思うと、ザアー、ザアーという気味の悪い音とともに大倉山の小さな街はたちまち火の海となってしまった。精神文化研究所が海軍の気象部になっていたので目標になったのであろう。

・・・防空頭巾をかぶりモンペ姿で母と三人で縁の下で身をかくしていた。あたりが静かになり家は燃えてくるし、縁の下から出てちょっと見ると、母と妹と私の真ん中に油脂焼夷弾の一本が立っていた、一瞬にして私の顔に破裂したのである。

 私は痛いも、あついも、何も感じなかった。口の中に煙が入ってくるのだけはわかった。時間はどのくらいたったであろう。

・・・母と妹がそばにいて、母は「かあさんが代わってあげたかった」と泣きながら言った。火達磨になった私に武田さんのご主人と長男の方や母妹達が水をかけてくれた。

 ・・・

 父は大倉山女学校(現在東横学園高等女学校の場所)を設立していた。空襲と同時に警戒に当たっていた。父が急報に接しとんで来てみると、私はたんかに乗せられすぐ上の精神文化研究所へかつがれていった。

・・・一応手当てがすんだので、父の学校へたんかで運ばれ、机を二つ合せてたんかのままのせられた。

・・・

 引用をおわりますが、空襲の忌まわしさに身の毛がよだつ思いがするとともに、高野先生のお嬢様にはほんとうにお気の毒なことです。

 卒業生のなかには、私が授業教材として使ったことがありますので、覚えている人もいるかもしれません。

 本校前々教頭の山口勤先生は、このお嬢様に会われたことがあるとおっしゃっていました。お譲さまは大倉山高校と同じ敷地にあった大倉山幼稚園の先生をなさっていたから、お会いできたのですね。

 以上の手記によれば、大倉山女学校創設者高野平先生は空襲のさなか、学校に急行されたことがわかります。

 引用文の前に、空襲警戒警報が早朝だったため、学校は休校で生徒登校はなかったことが書かれてありますが、いざというときは学校にかけつけることを先人の遺訓として受け止めたいと存じます。高野平先生は、このあと10年ほどで五島慶太理事長をたよって東横学園傘下に入られました。

              以上

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2011年4月 4日 (月)

再録:ありし日の母校vol.25【幼稚園庭で】1962年=昭和37年アルバムより

再録記事です。なかなかオリジナル記事が書けずに申し訳ないです。

ありし日の母校をごらんください。

book併設の大倉山幼稚園で卒業記念撮影tennis

昭和37年(1962年)の卒業アルバムからです。第3期生となります。

0_1962album_kousya

木造校舎の時代。カラー写真でないのが残念です。

屋根はオレンジ色に塗られていて、赤い屋根の学校として地域から親しまれていたといいます。

鉄筋コンクリートに建て替えられましたが、屋根の色は、皆さんよくご存知のように、体育館の色として残り続けました。制服のリボンが臙脂色(エンジ色)で赤ですから、言うまでもなく、スクールカラーで屋根を塗っていたわけです。

0_1962album_kounai_yotien20_1962album_kounai_yotienそのころ、大倉山幼稚園が併設されていて、師岡熊野神社の石川宮司さんがご卒園なさっていることはたびたび記してまいりました。過日、別の卒園生の方からもメールをいただきましたことを紹介しました(今年10月22日記事:最後にリンク張りました)。

0_1962album_kounai_yotien30_1962album_kounai_yotien4大倉山高校だけでなく、幼稚園を含め、大倉山で学んだ方々にとって、大倉山の高台は一生の思い出として心に刻まれています。もちろん私ども教職員にとっても。

0_1962album_kounai_yotien5大倉山高校生は幼稚園の皆さんから「お姉さん方」といって、とっても慕われていたといいます。運動会などの行事のときだけでなく、日常的にやさしくお世話されていたからでしょうね。その交流が、卒業記念写真撮影の場に幼稚園庭と遊具を選ぶことにつながっているのだとおもいます。

いずれも、お一人お一人に、やさしさと誇り、気高さがあふれている記念写真だと思います。    

  • ↓大倉山幼稚園の園児たちが遊ぶようすの写真や先生方の写真は次の記事をクリックしてください↓
  • 平成21年1月23日記事
    •  
  • ↓また、当時幼稚園生だった男性の方からメールをいただいたことを次の記事で紹介しました。未読の方、あわせてクリック一読願います↓
  • 平成21年10月22日記事
    •  
  • ↓それから、管理員の宮崎さんが幼稚園運動会記念のタオルを発見されたときの記事もご覧ください↓
  • 平成20年2月22日記事

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2010年8月 4日 (水)

【再録】大倉山幼稚園&新垣勉オペラ公演(その3)in保土ヶ谷アートホール

  • これから研修が入ったり宮崎に帰省したりで、まとまった時間がどれだけとれるか分かりませんので、本日より、しばらく再録記事期間に入ります。
  • 思い出にひたることのできる記事や先生方の特別講座などためになる記事の再録をしてまいりますので、どうぞご愛読願います。
  • ≪ありし日の母校番外編≫を楽しみにされている方には申し訳ないですが、先の楽しみにとっておいていただければと思います。

present素晴らしい発見・・・大倉山幼稚園にかかわってdog
  (平成20=2008年2月22日掲載の記事)

080221tenugui_of_yochien_hakken_by_

管理員の宮崎さんが本校の歴史をふりかえるうえで貴重なものを≪発見≫してくださいました。

080221tenugui_of_yochien_hakken_b_2←「東横学園大倉山幼稚園」のてぬぐいです。

綱引きの模様があしらわれているデザインです。象さんに対してうさぎさん、きつね君、猫ちゃん、わんちゃん、豚君たち小動物が一生懸命負けまいとしている絵柄です。応援のねずみ君がふっている旗に校章があしらわれていたり、実に愛らしいですね。

 大倉山幼稚園は昭和32年に第一回入園生を迎え、7期生まで卒園させ昭和42年4月、現川崎市宮前区にあった東横学園野川幼稚園に移管されました。

 本校の前身、大倉山学園の創立者高野平先生の娘さんが先生をやっておられました。(2006年5月25日記事参照←クリック)

 近くの師岡熊野神社の石川宮司さんも卒園生で、お会いするたび、懐かしい話を聞かせてもらっています。何期生かお聞きしていませんが、たぶん第一期生だと思います。

notes新垣勉オペラ公演報告(その3)bell

 (その1)と(その2)からお読みください。←クリック

080216_0215aragakikouen_arthall_con  今はIT時代と言われます。

 テレビからだけでなくインターネットからも簡単に情報が入ってきます。情報過多といったほうが良いくらいです。

 下手をすると、情報に押しつぶされてしまいそうです。しかも、悲しいニュース、命が粗末に落とされるニュースが次から次に起きています。

 命が軽んじられる時代・・・なぜ、こんな世の中になったのでしょう?物があふれるほど豊かな時代なのに、心の豊かさが忘れ去られている。ITの進化も良いですけど、それに支配されるのは良くありません。

 デジタル全盛のなかでアナログの良さに帰ることも大事です。デジタルだけの世界では、数字だけでは表せない友情、愛、ぬくもり、コミュニティがなくなってきます。

 人生は思い通りにならないことがいっぱいあります。

 世の中も同じです。しかし、思い通りにならないといって済まされないこともある。日本の行く末、経済大国になったからといって、軍事大国になってはいけません。平和大国でなければなりません。これだけは思い通りにならなかったではいけません。実は人生も同じです。

 思い通りにならないことが人生にはいっぱいあるけど、やっぱり、自分の思いは大事にしなければいけない。

 「いったん会社に入ったら同じ会社で最後まで働く」・・・現代はそういう時代ではなくなりました。一方で、夢がなくなってきている時代でもあるけど、自分の豊かさ、個性、輝きを出せる時代にもなっている。

 大きな心の目でながめれば、自分らしく生きることができる時代になってきています。

 「自分らしく生きる」というのは決して、「自分に執着する」ことではありません。自分に執着して我を通すのが自分らしく生きることではありません。「共に生きる」ことです。「周りと共に生きる」ことです。

 「あの人といっしょに生きることができて良かった」と思われる人生を送ることが「自分らしく生きる」ということです。

 そのためには、さっきお話した「出会いの大切さ」を大事にしなければなりません。

 みんな、「オンリーワン」を持っています。人と比べてどうこうではない。人と比べた自信ではない。比較して良い悪いではない。それがオンリーワンです。

 いわば、オーケストラの楽器です。トランペットの音はトランペットにしか出せません。他の楽器にトランペットと同じ音は出せません。トランペットには他の楽器の音は出せません。

 「自分という楽器」をどのように磨くか、人が「その人の楽器を磨いている」ように自分も「自分という楽器」を磨く・・・そこにハーモニーが生まれます。皆さんにはそのように生きて欲しいと思います。

 昨年12月、私のことが2時間ドラマになりました。

 観てくださった方もいるかもしれません。世の中にたくさんいらっしゃる「人生の達人」をさしおいて私ごときがと考えて、一度は断わろうと思ったのですが、自分のこんな人生でも、どなたかの役に立つようなことがあるかも知れないと思ってお引き受けしました。

 ご覧になっていない方はビデオやDVDなどでみていただくと私の人生がお分かりいただけると思います。

 さて、終りの時間がやってきました。

 沖縄の喜納昌吉さんの「花」を最後に歌います。

 ♪花(喜納昌吉作詞作曲)♪

 今日は大変ありがとうございました。
 皆さん、お元気でお過ごしください。

 ※このあと、アンコールにこたえてくださいました。

 ♪アンコール曲:マンマ♪

 (盛大な拍手)

080216_0215aragakikouen_arthall_han 「マンマ」は新垣さんの二人のお母さん(実の母と育ての母=祖母様)への複雑な感傷を背景にもつ歌だそうです(樋口先生教示)。

080216_0215aragakikouen_arthall_h_2   最後に生徒会長の齋藤美紀さん、書記の近野友利さんがお礼の花束を贈呈致しました。

 その4(樋口先生の司会のことばに続きます。サプライズのお話もあります。

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2010年6月16日 (水)

ありし日の母校Vol.31≪山桜・幼稚園、文化祭後夜祭in校庭写真:1965年アルバム≫

event文化祭後夜祭night

午後出張ですので、一枚の写真の掲載でご容赦ねがいます。

0_1965album_kousya_koutei_bunkasai_

↑ 1965年アルバムですから、1964年(昭和39年)の文化祭でしょう。

 昭和39年は東京オリンピックの年です。その年、10月10日が開会式でしたから、この本校文化祭もオリンピックたけなわのときか、開幕直前の盛り上がりを見せているときか、いずれにせよ、日本国中がオリンピック一色となっているときに開かれたわけです。

 ♪こんにちは こんにちは 世界の国から ~~♪

 三波春夫さんの歌が連日のようにラジオからテレビから流れていましたが、いや、これは、♪1970年の こんにちは♪ と続きますから大阪万博のときの歌ですね。

 ♪ オリンピックの顔と顔 それ ドトント ドトント 顔と顔 ♪ ですね。

 写真の輪になっている在校生の皆さんも歌ったのではないかと想像しますが、実際はどうだったでしょうか。二重の輪を作って踊っているのはフォークダンスのようですから、オリンピック音頭は歌わなかったかもしれませんね。

 フォークダンスで盛り上がる校庭の真ん中に、キャンプフャイヤーの木のやぐらが組まれています。

 夕闇せまるころ、火がつけられ最高潮を迎えると思われますが、このころはまだ大倉山幼稚園が併設されていたとき、きっと、幼稚園児たちも大勢、高校文化祭の見学にきていて、キャンプファイヤーを楽しみにしていたことでしょう。それとも、幼稚園児は参加禁止だったのでしょうか?

 その幼稚園の園舎は、写真奥のちょっと高みにある建物です。その右側のほうに園庭がみえますね。

 そして園庭のうえに、本校のシンボル=山桜が立っているのがみえます。このころから少し斜めに傾いて立っていたようです。そりゃそうですよね、このころですでに樹齢230年を数えていますから、風雪に耐えた老木です。

 山桜の手前にある木は、私が赴任した昭和52年にはもうありませんでしたから、鉄筋コンクリート校舎建設のときに、建設の邪魔だということで伐られたのでしょう。木がきられるのは悲しいことですが、いたしかたない面もあります。それだけに、山桜を残された当時の関係者のご辛苦がしのばれます。

 一枚の写真から、いろいろなことがしのばれるわけですが、校庭の手前にある一台のバイク、当時は「単車」(たんしゃ)といっていた時代ですが、いかにも時代を感じさせてくれますね。

 嗚呼大倉山五十年。

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2010年5月24日 (月)

大倉山幼稚園のこと(大倉山幼稚園卒園生からメール)

mail大倉山高校と大倉山幼稚園の絆loveletter

大変うれしいメールを頂戴しました。大倉山幼稚園を昭和28年に卒園なさった方です。以前にも卒園生からメールを頂戴しましたが(←クリック)、今回の方はまた別の方で、これで私の知る卒園生男性は3人となります。

メールご紹介を承諾していただきましたのでご覧にいれたいと思います。本ブログに掲載することで、「東横学園大倉山の卒業生になったようで嬉しいです」とおっしゃってくださいました。

私どもも、大倉山幼稚園と大倉山高校との絆の強さを感じることができ、大変うれしく存じます。

感謝の気持ちをもって、以下、メール本文をご紹介します。

大倉山幼稚園の昭和28年卒園生です。

偶然、校長日記のブログで大倉山幼稚園のことが紹介されているのを見つけました。

園舎の写真などが大変なつかしく当時の事が思い出され、高野先生と言う名前もおぼろげに浮かんできました。

大変優しい先生で大好きでしたが、入園して最初にお会いした時はびっくりしました。

原爆の被爆によるものだと聞いたように記憶しておりました。

さらに読み進めて高野先生の写真を見つけて驚き、また大変なつかしく拝見しました。

園長の高野先生のお嬢さんであることも、横浜大空襲のことも初めて知りました。(重永注:下記リンク参照)

近くの大綱小学校に入った後に東横学園になったことも覚えており、大倉山学園の事も大変興味深く読ませて頂きました。

有難うございます。

大倉山公園に隣接する龍松院の住職とは、大倉山幼稚園、大綱小学校で同級でした。

小学校のクラス会では幼稚園で同級だった女性とも会いますので、今度、校長日記の話をして思い出を聞いてみたいと思います。

今の日本では教育はより重要性を増しております。

みんなに豊かな生活を目指す明確な希望があった昭和と違って大変でしょうが、校長先生としての現役のお仕事と校長日記ブログを続けて下さい。

                  細村弘義

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2009年12月11日 (金)

ありし日の母校vol.25【幼稚園庭で】1962年=昭和37年アルバムより

book併設の大倉山幼稚園で卒業記念撮影tennis

昭和37年(1962年)の卒業アルバムからです。第3期生となります。

0_1962album_kousya

木造校舎の時代。カラー写真でないのが残念です。

屋根はオレンジ色に塗られていて、赤い屋根の学校として地域から親しまれていたといいます。

鉄筋コンクリートに建て替えられましたが、屋根の色は、皆さんよくご存知のように、体育館の色として残り続けました。制服のリボンが臙脂色(エンジ色)で赤ですから、言うまでもなく、スクールカラーで屋根を塗っていたわけです。

0_1962album_kounai_yotien20_1962album_kounai_yotienそのころ、大倉山幼稚園が併設されていて、師岡熊野神社の石川宮司さんがご卒園なさっていることはたびたび記してまいりました。過日、別の卒園生の方からもメールをいただきましたことを紹介しました(今年10月22日記事:最後にリンク張りました)。

0_1962album_kounai_yotien30_1962album_kounai_yotien4大倉山高校だけでなく、幼稚園を含め、大倉山で学んだ方々にとって、大倉山の高台は一生の思い出として心に刻まれています。もちろん私ども教職員にとっても。

0_1962album_kounai_yotien5大倉山高校生は幼稚園の皆さんから「お姉さん方」といって、とっても慕われていたといいます。運動会などの行事のときだけでなく、日常的にやさしくお世話されていたからでしょうね。その交流が、卒業記念写真撮影の場に幼稚園庭と遊具を選ぶことにつながっているのだとおもいます。

いずれも、お一人お一人に、やさしさと誇り、気高さがあふれている記念写真だと思います。    

  • ↓大倉山幼稚園の園児たちが遊ぶようすの写真や先生方の写真は次の記事をクリックしてください↓
  • 平成21年1月23日記事
    •  
  • ↓また、当時幼稚園生だった男性の方からメールをいただいたことを次の記事で紹介しました。未読の方、あわせてクリック一読願います↓
  • 平成21年10月22日記事
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  • ↓それから、管理員の宮崎さんが幼稚園運動会記念のタオルを発見されたときの記事もご覧ください↓
  • 平成20年2月22日記事

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2009年10月22日 (木)

嗚呼!大倉山幼稚園

以前のことですが、大変嬉しいいメールが届いております。

 男性ですが、本校併設の大倉山幼稚園を卒業された方からです。

 本ブログを読まれてメールを下さいました。全文掲載の許可をいただいておりませんので、ご紹介だけにさせていただきますが、校長日記に掲載した大倉山幼稚園関係の記事にジャンプできるよう、今日の記事末尾にリンクもはっておきますので、あわせてご利用ください。

 いただいたメールは、大倉山校に対する愛惜あふれる心情がいっぱいです。大倉山幼稚園時代のフィルムをお持ちだとのこと。そのフィルムには、大倉山幼稚園の運動会の模様が収録されており、大倉山高校のお姉さん方がお手伝いをする様子が映っているそうです。

 この方が在園中に東海道新幹線が開通したということですが、本校卒業生の思い出話のなかにも当時の風景に新幹線が登場したことの驚きというか喜びのようなものがあふれています。幼い幼稚園児の目にはなおさらのことだったでしょう。

 沢蟹(さわがに)をつかまえて遊んだという話も出てきます。今から3-4年前に、生物の森口先生が体育館の裏のところで沢ガニを捕まえて、生物の授業で生徒の皆さんに見せられたことがありますよね。きっと子孫だったのでしょう。

 当時は、グランドも体育館(体育室)も幼稚園と高校とで共用だったそうです。メールをくださった方は、高校生が卓球をやっているところに一緒に行って、高校生のラケットで自分の鼻を打たれたことを鮮烈な記憶として覚えておられるそうです。

 本校が統合になったことを心から惜しんでくださっている文面でしたが、これで、私が知る大倉山幼稚園卒業の男性は師岡熊野神社石川宮司様に続いてお二人目となりました。

 この思い出とメールを大事にしていきたいと思います。

 ※校長日記ブログに掲載した大倉山幼稚園に関する記事は次の通りです。それぞれクリックするとジャンプします。卒業生の思い出のほか園庭、先生の写真も多数掲載しています。

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2009年2月23日 (月)

本校の歴史年表:その2≪大倉山五十年史vol.19≫

本日は≪大倉山五十年史≫に掲載した本校の歴史年表その2です。この歴史年表はその8まで続く予定です。いろいろ連続掲載のものがありますが、他のものと合わせてこれもご愛読願います。

  • 歴史年表その1をご覧になるには右をクリックしてください→2月12日記事
  • また≪大倉山五十年史≫、≪大倉山の歴史≫の記事は、左欄カテゴリーのその箇所をクリックすればご覧になれます。未見の方はどうぞご覧ください。

cherryblossom1956年-1968年の大倉山高校book

今回は合併して東横学園大倉山高等学校が設置された1956年から1968年までのおよそ10年間の年表です。

 その1は前史と名打ちましたが、今回からいよいよ本史となります。

0810_50nensi_gakkounoayumi2_195668 (設置)       
1956 昭31 東横学園女子短期大学設置

同年、東横学園小学校、

       同年、東横学園用賀幼稚園設置(正和行学園を合併)

      同年、学校法人大倉山学園を学校法人五島育英会に合併

      同年、東横学園大倉山高等学校設置(新規生徒募集)

      同年、東横学園大倉山幼稚園設置

  • 大倉山幼稚園の写真は次の記事の最後に掲載してあります。クリック→1月23日記事

 
(本史)       

1957 昭32 東横学園大倉山高等学校第1回入学式(120人)及び同幼稚園 第1回入学式(※高校募集定員2クラス100名)
 
1958 昭33 第2回入学式 2学年そろう(全校生229人)

1959 昭34 第3回入学式 全学年そろう(347人)    

       修学旅行(北海道8日間)、臨海学校開始

0810_50nensi_gakkou_no_ayumi_63kous1960 昭35 全校生徒311名

        第1回卒業式(第1回卒業記念品:卒業期名入れテント)

1961 昭36 全校生徒325名

1962album_gyouji2_undokai         第5回体育祭(本校校庭) 体育祭で仮装行列

1962 昭37 全校生徒370名(入学志願者550名)

0810_50nensi_gakkounoayumi2_koukuus        第1回文化芸能発表会

         本校初の校舎全景航空写真撮影

1963 昭38 全校生徒406名  富士登山

1964album_gyouji1_fujitozan_kakou 1964album_gyouji1_fujitozan_yamagoy         クラブ活動(部活動)の合宿を始める-

        この年はバスケット部とバレー部

        同年 第1回学園祭(文化芸能発表会を発展)

1964 昭39  全校生徒495名 2クラス募集から3クラス募集へ募集定員増

1964 昭39 3月校舎増築(4教室)

1964 昭39 富士登山

1964 昭39 東海道新幹線開通(霊峰富士とともに教室窓外風景名勝となる)

0810_50nensi_zenkokulebel_basket2_i 1965 昭40 全校生徒486名 バスケットボール部県大会優勝     (岐阜国体に出場)

0810_50nensi_zenkokulebel_basket3_i 1966 昭41 全校生徒508名 バスケットボール部県大会優勝(インターハイ全国大会in秋田:ベスト16進出)

0810_50nensi_zenkokulebel_basket_in 1967 昭42 創立10周年 全校生徒418名

1967 昭42 バスケットボール部県大会優勝(インターハイ全国大会in金沢に出場)

      1967 4月大倉山幼稚園を東横学園野川幼稚園に統合移管

1967 昭42 西校舎改築(鉄筋コンクリート3階建て)

※校舎改築工事のためこの前後体育祭中止。→1971年再開まで体育祭を実施せず

1968 昭43 全校生徒406名 学園祭後夜祭で校庭キャンプファイヤー

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2009年2月12日 (木)

本校の歴史年表:その1≪大倉山五十年史より vol.18≫

book本校の歩み(前史)book

 「大倉山五十年史」には学校の歴史年表を四ページにわたって掲載しました。

それを、これから四回に分けて掲載してまいります。

 以下の年表の途中「解説」とあるのは、このブログ転載に当たり私が書き加えたものです。「五十年史」そのものには紙幅の関係で書き入れてありませんのでご注意ください。

  • これまで校長日記に掲載した「大倉山五十年史」は、左欄のカテゴリー、五十年史をクリックしてください。全てご覧になれます。

 今日掲載は東横と大倉山の合併以前の歴史。すなわち≪前史≫の部分です。

 以下、太文字部分が大倉山高校関係です。それ以外は東横学園関係。

 今日の年表(大倉山学園時代)に関する詳しいことについて、高野平先生が「東横学園二十年史」に執筆されています。次の日付の校長日記に転載しておりますので、クリックしてご覧ください。

 (クリック→)平成21年1月23日記事

0810_50nensi_gakkounoayumi1_zensi

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1938 昭13   6月1日創立:東横商業女学校      

1939 昭14   東横商業女学校第1回入学式      

1940 昭15   商業女学校を東横女子商業学校と校名変更

           2月19日大倉山女学校創立(高野平理事長)
      
1943 昭18     4月1日大倉山高等女学校創立

          高野平理事長兼校長"

1945 昭20   東横女子商の実業課程廃止

            "横浜大空襲で大倉山地区被災

          大倉山高等女学校生徒、安立電気綱島工場勤労動員"
      
1947 昭22  "等々力中学校設置(後に東横学園中学校)"

1948 昭23  東横学園高等学校設置(等々力)

           大倉山高等女学校を大倉山女子高等学校に校名変更

        大倉山女子中学校、大倉山幼稚園を設置"

1953 昭28    大倉山女子高等学校生徒募集停止

1954 昭29  五島慶太 東横学園理事長就任

1955 昭30  "学校法人五島育英会設立(武蔵工業大学を合併)"

         二子玉川幼稚園を開設

1956 昭31    4月1日、大倉山女子高等学校を五島育英会に合併し閉校

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